これは翻訳授業です。中国人の学生に、東大の先生を中心に授業をすると、中国人の学生が翻訳して授業をするという、変則授業あるいは速成科と言われるものです。それに対する反発から、早稲田大学は、正則授業ということで、清国留学生部をつくって、清国留学生に日本語で教えます。そのために予科と本科では、日本語の授業を重視しました。同じように、明治大学の経緯学堂も、清国留学生を中心としたものです。
この時期、日本がなぜ留学の中心になったのか。1つは、1905年に科挙が廃止され、科挙に代わって新しい官吏登用の基準として出てきたのが、東学。東(洋)とは、日本の意味ですが、東洋の学問、つまり日本の学問を学べば、官吏登用資格が得られることがあった。1905年から1906年がピークでしたが、1万8,000人から2万人近い留学生が日本にやって来ました。とりわけ東京にやってきています。この当時の日本の人口は4,500万人程度だったと思われますから、かなり高い比率だった。
1905年に日露戦争に日本が勝ちます。有色人種にとって激励になり、ファン=ボイ・チャウというベトナム人が日本にやってきて、東遊(ドンズウ)運動、つまり日本に遊学をする運動を起こします。はっきりした人数はわかりませんが、200名から600名近い留学生が日本にやってきます。留学生は、ハノイ等に帰って、トンキン義塾をつくりました。この義塾は、実は慶應義塾にちなんだ名前ですが、トンキンはもちろん地名で、庶民教育といいますか、演説会を行ったり、出版物を無料で配布したりする。それから、国語、現在、ベトナムでは、ローマナイズ化された国語をつかっていますが、その普及運動を行いました。
タイでは、1888年という早い段階で、教育使節団が日本にやってきます。この時期は、ラーマ4世から5世の時代にかけてのチャクリ改革と言われる、チュラロンコーン王の西洋改革が進んだ時期です。イギリス等にも留学生を送っています。1903年は1つの説なんですが、それ以前の1890年代に来たという説もあります。
インドの愛国詩人だったヴィヴェーカナンダという人が日本にやってきました。日本への留学を奨励するということで、ネパール人を含めて、1905年には70〜80名が日本に滞在していたと言われています。
このように、1880年から終戦まで、アジアからの留学生がたくさんやってきます。ちなみに、インドネシアは、1930年段階で留学生がやってきます。このように日本がアジアの中心、文明発信の中心と考えられた時期があります。
革命服を生んだ都市
日本が中心になり得た1つの理由は、亡命者・革命家たちが、日本にアジールとしてやってきたことが重要な点です。「革命服を生んだ都市」の意味は、辛亥革命が起きた1911年に、留学生たちが日本から帰って、革命軍に入る。詰襟の金ボタンをみんな着ていたので革命服と呼んだ。北一輝が、そういうことを書いていて、東京のファッションが、ある種、革命のファッションになり得る時代があったわけです。
20世紀を考える場合に、世界都市の条件とは、ニューヨーク、19世紀であれば、ウィーン等を含めて、亡命者・革命家たちを、どれほど許容できるかが重要な要因だったと思われます。日本に朝鮮から金玉均たちの独立党がやって来ることになります。
特徴的なことは、日本の場合、ヨーロッパとの条約を遵守する立場から、次第に亡命者を国外退去させる方向に進んでいきました。1920年代には、亡命家たちの都とはなり得なくなっていきます。それに代わってあらわれてくるのが、上海です。上海は、パスポートが要りませんので、だれもが逃げ込める点では、まさにアジールであったわけです。李承晩の大韓民国政府ができたことが象徴的なことであるように、あらゆる人が、そこに逃げ出す。金玉均も実は上海に逃げて、そこで暗殺されました。そういう形の流れがありました。
中国の場合は、康有為や梁啓超ら皇帝を立てる保皇派と、孫文や章炳麟らの中国同盟会が競って議論を展開する。保皇派は「清義報」とか、「新民叢報」という雑誌を出していましたし、中国同盟会は「民報」という雑誌を出しています。