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同様に鄭和も、1405年から33年にかけて、7回ほど、アフリカ東海岸まで大航海をした人ですが、この人も雲南省の出身です。父親はハジという名前です。ハジは、メッカに巡礼をした人に付く名ですから、おそらく雲南からメッカにまで巡礼した。14世紀か15世紀初頭にメッカまで雲南から行ったことが推定されるのですが、そういう人の息子にあたる。帝国性といいますか、一種の世界都市性の中では、文物とともに、人の採用という点もかなり重要な要因になっていたのではないかと思われます。

とりわけ、文物の中でも、文明の発信都市であったことは言うまでもありません。センター・オブ・エクセレンスになっていたわけで、留学生(「るがくせい」とも読む)や留学僧たちが、北京ないし長安に集まるのは、そこが律令という法制とか、事物などの学問のすべて淵叢になっていて、すべてのものが手に入ると思われたからです。

 

文化倒流の時代

 

ちなみに唐の長安が衰退した原因の1つは、長安の中に西域人街(西域から来ていた人たちの街)があり、その地域に、景教(ネストリウス派のキリスト教)、ゾロアスター教、マニ教等があった。盛唐の時代には、そういう異教徒を許容していたが、衰えていく時代は、仏教を含めて弾圧した。それが基本的に長安が衰亡する原因になったとも言われている。文明の発信を絶やすことによって、世界都市が衰退していった1つの例証になろうかと思います。

「明・清時代におけるイエズス会士たちの遠謀と西学」ですが、日本にやってきたイエズス会士たちは、ザビエル等も最終的には中国に向かう。マテオリッチ等も明で西学、つまりヨーロッパの学問を中国に伝えるわけです。そのときに、はっきりと言っていることは、中国でキリスト教を布教さえすれば、当然、周辺には伝わっていくと。だから、日本に布教するよりも中国に布教することが大事なんだと言っています。

西学とは、漢文に訳されたヨーロッパの学術書をいうのです。これが日本の江戸時代に入ってくる。日本に蘭学が入る以前のヨーロッパの学術は、この西学書で受容していた。蘭学以前どころか、明治19年までは、中国でイエズス会士、その後のカトリックからプロテスタントまで、彼らが出したヨーロッパの学問を日本は受け入れて、近代の学問をつくっていきました。江戸時代の禁書の対象になったのは、この西学書のことです。オランダの書物、英語の書物など、当時はだれも読む人はいないから、禁書にする必要がないわけで、西学書の中にキリスト教的なものが入っているかいないかが、問題なのです。逆に言うと、蘭学が入ってくるまでは、それを通じてしかヨーロッパの学問は日本にも入らなかったし、東アジアの世界にも入っていかなかったことを意味している。

日本が近代化する場合、中国発の漢訳西学書が非常に重要な意味合いを持ちました。例えば、『万国公法』ですとか、国際法の本です。日本がヨーロッパから直接入手したというよりも、むしろ中国を経由して受け入れたものによって、日本は開国した。幕末から明治20年代までは、中国を起点とした文明の発信があったわけで、それが1880年代から、逆に日本を中心として文明がアジアに流れる事態が起こってきます。「アジア世界都市としての東京の出現」とは、そういう事態を指します。中国の人から言わせれば、文化の低いところから高いところに流れる「文化倒流」の時代の出現です。

 

II. アジアの世界都市としての東京の出現

 

アジア各地から、どのように日本に留学生がやって来たか。

朝鮮からは、1881年の紳士遊覧団がやってきた。視察団ですが、3名が、福沢の慶應義塾と中村正直の同人社に入っています。

中国からの留学生は、1896年、日清戦争の後ですが、13名をはじめとして、その後、大量にやってまいります。日本で授業を行いましたのは、魯迅も学んだところで有名な嘉納治五郎の弘文書院で日本語教育を行う。それから、成城学校です。これも日本語学校とともに、士官学校への予備校の意味合いを持っています。その後の近代の中国にとって重要な役割を果たしたのが、東大教授、法政大学総長でした梅謙次郎が開いた法政速成科と言われるものです。

 

 

 

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