青木 本日は、世界都市東京フォーラムの最後です。これまでに最初に岡本さんのイスタンブール、陣内さんのベニスのお話を聞いて、それから川本さんと森さんの東京のお話を聞きました。それから、国際シンポジウムで、N・ヤルマン先生のイスタンブールと東京の比較論、オスマン・トルコ時代の世界都市イスタンブールと。それから、駐英大使をしていらした藤井さんの、さまざまな赴任地での世界のほかの都市と比べた東京論、世界都市についてのお話をいろんな面から聞きました。今回は山室先生に「歴史と文化」にかかわる「亜細亜の世界都市」のお話をお願いします。山室先生は、満州国の研究で大変な業績を上げています。中国を中心としたアジア近代史がご専門です。
山室 これまでいろいろお話を伺い、大変、勉強になりました。うまくそれらの議論に重なるかどうかわかりませんが、「歴史と文化」の問題だけを今日は扱わせていただきます。
「亜細亜の世界都市」ですが、インドから東の地域について、お話しします。
フォーラムのご案内では、長安から始まった世界都市を、ということでしたので、その辺のことも少し考えて、とりわけ近代の日本が、アジアにおける世界都市であったことの意味をまとめて、こういう世界都市の様相があったことだけをお話しします。
I. 近代以前の東アジアの世界都市…長安から北京(燕京)まで
まず、近代以前の東アジアにおける世界都市は、長安と北京です。北京は、北平とか、いろいろな言い方があります。なぜ中国の長安から始まって、現在の北京までが世界都市であり得るのかといえば、「地大物博の天朝上国」というイデオロギーとともに、その実態があったからです。地大物博というのは、地が大きい、つまり版図が大きくて、そこにいろいろなものがあるということです。
中国の世界観念では、自分が一統垂裳というのです。垂裳はピラミッド型の成り立ちをしていて、その中心に中華があり、どんどん広がって特化されて、あらゆる地域が中国の地域の中に入ってくるという世界体制観念をとっていた。その中に、朋封体制といわれるものがあって、「漢奴之国王」とかいう藩の国王に、皇帝が任命する形をとる。そういう体制に入りますと、証として、朝貢をしなければならない。朝貢すると同時に、中国の年号、暦を使うことや、服制を同じくする。
朝貢とは、一般的に、何か貢ぎ物をすることです。その字面から、一方的に中国が搾取する印象を与えられるかもしれませんが、実態は全く逆で、朝貢すれば、それに数倍に当たるものを、回賜という形で中国が与えてくれる。文明をくれるわけです。
同時にまた、政治的な取引とともに、朝貢に行けば、必ず私貿易が許されるので、商人等がつき添っていって、長安なり北京の郊外で私貿易をする。それによって、中国にさまざまな世界中の文物が集まってくるとともに、情報や文物を持って帰れるということです。会典という中国の法律がありますが、どこの国は何回朝貢することなどと書いてあります。例えば、朝鮮の場合、2年に4回行くことになっていたりしますが、それ以外にまた、燕行使というのがあり、秋冬などに行って、中国の最新の文明を持って帰るシステムになっていた。
そういう体制ですから、出自を問わない官吏登用が行われました。一般的に、帝国が持っている1つの特徴です。オスマン帝国でも、ギリシャ、エジプト、オーストリア人を使ったりしたように、中国の場合もそうでした。
そこに書いた唐の晃衡は、阿倍仲麻呂、日本人の中国名で、彼は大詩人の李白とつき合いがあるし、高位高官まで進んだ。『唐詩選』にも、晃衡について歌った歌がかなりありますが、そういう形で、文明の交換を行う。
次は蒲寿庚という人のことです。今日は基本的に政都のことだけ話します。基本的に東アジアにおける世界都市としては交易が中心で泉州(福建省)などがあります。商売については、ある時期泉州のほうが世界都市であったとも言えます。さて、その蒲寿庚は、宋末から元初にかけての人ですが、アラビア人ないしペルシャ人と言われています。しかもムスリムです。税関の長とか、あの地域の大都督等に任じられています。ムスリムでペルシャ人であっても、中国の国家体制の中では大官になれるシステムがある。