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大半の歴史家は、オスマン帝国は、西のイタリアやハプスブルグ帝国などに常に軍事的脅威をもたらしながら、自分たちが治めている土地のほとんどに法律と秩序と平和をもたらしていたという点で同意しています。彼らは国土における正義と公正な行政を最も重視していたことから、自分たちの国をいわゆる「崇高な(あるいは高貴な)帝国」と呼んでいました。そのことはエルサレムにおける彼らの慎重な行政に最もよくあらわれていると思われます。そこにはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教会(と寺院)が密接にかかわっていました。オスマン政権は、何の信仰であれ、信仰を持っている人たちがきちんとそれぞれの聖地にアクセスできるように、微に入り細に入ったアレンジメントをしていました。こうして、エルサレムは、オスマン帝国のもとで長い世紀にわたり平和が保たれていました。しかし、オスマン帝国が去ってからは悲劇的な経験をすることになります。大英帝国の委任統治のもと、「すべての平和を終えるための平和」と呼ばれたあの行動から、容赦のない一歩一歩を踏みながら、今日のパレスチナとイスラエルのような惨事に至ったのです。

オスマン帝国では、自分たちの帝国の色彩豊かな多様性を歓迎しました。この多様性の効果的管理こそ、帝国統治の目的そのものととらえられていましたので、あらゆる人を招き入れました。ユダヤ人も招きました。ユダヤ人たちは、1492年のカトリック教徒の異常なまでの偏狭さによりスペインから追放され、ここへ招き入れられることになったわけです。オスマンにはコミュニティーをさらに豊かにしてくれるであろうという目算があり、結果、今日なおトルコにユダヤ人は残っているわけです。

このように、文化的多様性にオープンであった結果として、複雑きわまる政治形態、国家ができ上がりました。1896年、イスタンブールに旅をしたエドモンド・デ・アミチスが書いた本は、ゴールデンホーンの入り江にかかっているガラタ橋を通り過ぎていく人々を描写しています。

彼はこう書いています。「イスラム教徒の女が歩いていく。ヴェールをかけた女奴隷や、小さな赤いキャップを頭に乗せて長い髪をたなびかせていくギリシャ女、黒いファレタで全身を覆ったマルタ島の女や、伝統衣装をまとったユダヤ女、色彩豊かなカイロ風ショールに身を包んだ黒人女もいる。トレビゾンドから来たアルメニア女は全身をすっぽり黒い布で包んでいる。シリアの男はビザンチン風の長い外套を引っかけ、頭には金色の縞模様のスカーフを巻いている。グルジア人は…」等々と続きます。カラマニアとアナトニアの、またキプロスとカンジアの、ダマスカスとエルサレムの独特な容貌と服装。ドルーズ派、クルド派、マロン派、テレマコス派、プーマ派、クロアト派等々の教徒たち。「二人として同じ服装の者はいない。ショールで頭をくるんでいる者もいれば、小布を頭に戴いている者もいるし、ある者は未開人のごとくベルトを武器で飾り、中には腰から脇の下まで届く武器もある。マムルーク王朝風のズボンや、膝丈のズボンをはいた者、ガウンや長目の上着を着た者、長いマントを引きずる者、白いアーミンの毛皮で縁取られたケープや金を散りばめたチョッキを着込んだ者、短い袖やちょうちん袖をつけた者、修道士のような衣装、演劇の衣装の者たち、女のような服装の男たち、男のように見える女たち、王子風を気取った農夫たちもいる」。

これは大きなメトロポリスの持つ複雑さで、私が指摘したいのは、この複雑さは今日我々の世界に存在する大きなメトロポリスの抱える状況と似たものであるという点です。大きな都市は皆、避難民、あるいは経済的移民という形で異国人種の流動に直面しています。問題はこれをいかにうまく管理していくかということです。

 

東京:“開かれた文化”?

 

東京に話を戻します。開かれた文化ということです。このような多様性と複雑な民族性、そういう構図は世界都市としての東京にどのように影響を与えるか。この問題には、内的な面と外的な面があります。日本と東京は、日本へ入っていきたいと思っている人たちがどんどん増えている中で、大量のアウトサイダーをほんとうに受け入れるであろうか。アウトサイダーが入ってきた場合、その土地の文化はどのような影響を受けるのか。

 

 

 

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