ということから、コンスタンチノープルにつくられた偉大な聖イレーヌ寺院や聖ソフィア寺院は、それぞれ聖なる平和と聖なる知恵に対する異教徒の崇拝をあらわすものでした。この平和と知恵を崇拝するのはなかなかにいい手本ではないかと思います。
この偉大なる都市は、東西のキリスト教の分裂に深くかかわっていました。コンスタンチノープルにおける教会がローマの権威を排斥したことから、教会組織の対立という聖職者の傷となり、その傷は癒されないまま今日に至っています。そして、コンスタンチノープルに対する略奪という形で西洋人は復讐を遂げました。すなわち、彼らは偉大なキリスト教の都市の象徴的力の源泉(symbolic capital)を略奪し、遠い自国の地へと持ち去ったのです。ピエール・ブルディユも書いているように、象徴的力の源泉はその社会の富にとってきわめて重要な部分です。十字軍が関心を持っていたのは、まさにこのキリスト教文明の持つ形式の本質そのものだったわけです。ここに、十字軍を研究している歴史家が書いた文がありますので、ご紹介します。
『1204年のイースターの日、酔っぱらい、キリスト教徒の血を浴びた十字軍戦士たちは、ソフィア寺院の大総司教の玉座に娼婦を座らせ、手に手をとってその女の回りを踊った―すべてのものが失われた―千年もの略奪と信教と文明の積み重ねのすべてが。聖骨(聖人たちのお骨)はフランスとフローレンスヘ。聖像は炎と化し、教会の供物と工芸品は盗まれ、西ヨーロッパの侯爵たちの冠を飾った。古代の王冠の宝石や、いわゆる中世暗黒時代の名工の手に成る金細工、キリストの使徒たちによる聖なる品々、彼らの遺髪、歯のかけら、ガブリエルの翼の羽根一葉(ガブリエルはキリスト受胎をマリアに告知した天使)そして「約櫃」など。これらすべてが失われた。数え切れないほどの書物が炎とともに消滅し、世界中に疑いと謎をまき散らした。帝国の運命も、千年にわたって競走場を飾っていた、かの有名な馬の銅像とともに消え去ってしまったのだ』。これは西欧十字軍の歴史家の記述です。
あの有名な馬は、その後ヴェニスに持っていかれて、サンマルコ大聖堂に置かれました。そこからあの有名なサン・マルコ広場を見下ろしています。ナポレオン・ボナパルトがヴェニスを征服したとき、この同じ馬をパリに持っていって自分の勝利を祝いました。その後、ナポレオンが敗北してまたヴェニスに戻されましたが、それと同サイズの金色のコピーは、今パリのルーブル前にある凱旋門の上に置かれています。このコンスタンチノープル征服の神秘は今なお明白に遠くの地において、その帝国的権力や権威のシンボルとして生命を与えられています。象徴的力の源泉とはそういうことを意味しています。
イスタンブール:オスマントルコの征服
その次に起こってきたのが、オスマントルコによるイスタンブールの征服です。トルコは1453年に征服をしました。この町につけたイスタンブールという名前ですが、これはギリシャ語で単にto the city、「町へ」ということを意味していたと言われています。彼らは世界の都市が自分たちのものになったことを十分認識し、「コンスタンチニーエ」とも呼ばれるイスタンブールの名前をオスマン金貨に飾り、そこに彼らの壮大と美に対する意識も込めました。巨大な、輝く帝国のモスクが建てられました。それはダマスカス、カイロや中央アジアでつくられたものとは全くスタイルの異なった物で、古代の聖ソフィア寺院の偉大なドームに、高くて美しいミナレットをイスラムのシンボルとして加えました。ドームとミナレットは、驚くべき「東の」スカイラインをつくり出し、これは今でも西欧からやってくる旅行者たちにとって、神秘に満ちたオリエントのシンボルであり続けています。
ソフィアは、偉大な古代の寺院です。知恵の寺院です。これは敬うのにはすばらしい寺院ですが、520年あたりの建設という日付には驚かされます。そのちょうど反対側、それほど遠くないところにオスマン帝国がつくった寺院があります。同じような形をして、スタイリスティックなミナレットがイスラム教の天まで昇るという教えを象徴しています。モスクの中は明るく、広々として風通しのよい、実にすばらしい感じです。