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アジア及びアフリカ経由の航路が発見されると、世界の経済はその方向を変えました。貿易活動の中心を成していた地中海周辺のジェノバ、ヴェニス、オスマントルコなどの国々は、ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダその他の海洋国家の後塵を拝するようになったわけです。これら特定の国々が当時あれほどまでに活動的だったことは大変驚くべきことです。フランス、プロシァ、オーストリア、そしてロシアが陸上の戦争を起こしましたが、その間、イギリスとオランダは、海上貿易、そして銀行業を通じてますます豊かになっていきました。こうして19世紀には、かつてぬかるみの村であったロンドンが重要な産業都市となった。パリとベルリン、後にサンクトペテルスブルグも、政治的な動乱の中にあったが、西洋ではだれもがモンテスキュー、ボルテール、ルソーなどを読み、その結果、彼らにとっての世界の中心はパリでした。フランス革命によって世界中の注目は、オスマントルコも含め、パリに集まりました。確かにゲーテはワイマールにおり、ヘーゲルはベルリン大学の最大の講義室で講義を行っていましたが、カール・マルクスがフランクフルトから逃れた先はパリ以外にはなかった。その後、「長い逃亡の夜」をロンドンの大英博物館で過ごすことになる。言い変えれば、ドイツにも中心的な都市はなかったわけです。

この間、徳川将軍家はみずからを閉ざした鎖国政策をとっていました。中国の満州人たちはヨーロッパの攻勢にかなうはずもなく、またインドは優勢なイギリスの力により植民地化され、異国情緒の対象と化していました。

世界の体制のセオリーは、経済、軍事、政治、文化の力の組み合わせが、芸術家や思想家、冒険家、そして指導者、イニシアチブをとる人たちがその野心を遂げる地を決定する際の検討事項なのです。これこそが世界の中心を決定していく。経済的、政治的権力が衰退したことで地中海は19世紀に僻地と化し、またロンドンやパリがヴェニスとコンスタンチノープルに代わって台頭してきたのも、世界権力の潮流によるものだった。

 

“世界都市”?

 

では、今日の世界都市はどこでしょうか。ヴェニスもローマも大好きですが、ヴェニスは空家だらけです。かつての栄光の面影だけが、さまよう旅行者をひきつけています。ロンドンやパリも19世紀の栄光をいまだに引きずって、第3千年期にとっての創意の都市はニューヨークと東京です。

ニューヨークは既にそのような世界都市になっています。東京は、まだ想像の段階にあります。これが力の中心をどうどらえるかにかかわる問題だということです。日本年鑑を見ると、世界経済がアメリカ、日本、ヨーロッパに3極化していることがわかります。つまり、ウォールストリートと東京が経済の中心になっています。EUも有望な競争相手ですが、経済の合理化を国の優先順位の上に位置づけるにはまだまだ時間がかかりそうです。また、これは全く実現しないという可能性もあります。多くの国家経済の集合体であるヨーロッパを1つの調整した方向へまとめていくことの難しさに対し、外貨による貿易業者も慎重になっている状況で、ユーロはその誕生以来ずっと下げ続けており、いまだに不確実なプロジェクトのままです。ということから、パリ、ロンドン、フランクフルトのいずれも、経済面では東京にかなうべくもないかと思われます。そうなると、アジアその他からやってくる知識人、アーティスト、音楽家、映画製作者たちは、いわゆる世界都市に集まり、そして世界都市を飾ってくれるわけですから、この人たちにとってはよい知らせ、グッドニュースです。

活動の中心を地中海から大西洋へ、そしてロンドン、ニューヨークヘと移してきた世界歴史の潮流の大変化が、今また新たに始まっているのではないかと思います。人々はそれに気づき、太平洋の世紀という言葉も生まれました。『エコノミスト』誌は、2000年11月18日号で、1999年、アメリカとイギリスは純国際債務国であった一方、ドイツと日本は純国際債権国であったと書いています。アメリカとイギリスは借金で食いつないでおり、ドイツと日本は膨大な投資のための資金源を持っているということです。

 

 

 

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