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その中で、雑誌が1つの広場というか、たまり場となり、いろいろなことが雑誌の編集所に持ち込まれる。その中であそこのうちは壊されそうだからどうにかしてほしいとか、残そうとか、みんなで一緒に行ってとにかく拝見させてほしいということで調査をさせていただいたりしました。その過程を通じて建物が保存できたり、区に買い取ってもらったりしました。不忍池の下に巨大な地下駐車場をつくるという計画があり、それをストップさせる。私どもの地域には、地質学者、都市計画、植物学者、財政学者とかもいましたので、専門家も含めみんなの知識、知恵を集めて、どうしてそこに地下駐車場をつくらないほうがいいのかというシンポジウムをやりました。あるいは不忍池周辺でのお祭り、パレード、町歩きとかいろんなイベントも行いまして地下駐車場計画はなくなりました。保存だけではいけないわけで、それをみんなで活用し、楽しんでいくという再生の活動をやってきました。

それから、お祭りも幾つかつくりました。菊まつり、円朝まつりという、全生庵と大円寺のお祭り以外にも、最近では町の中でフリーマーケットやお茶会やコンサトやいろいろなことをやる人が増えてきて、わざわざ外に遊びに行かなくても町の中で結構楽しめちゃう。私たちもいろいろなシンポジウム、展覧会、映画の映写会、寄席をやってきました。これは今、秋に、谷中芸工展というような形を変えてもっと大きな形で、谷中学校を中心として10日ぐらいやっています。つい隣の上野には、東京芸大の美術館と、それとつなげて「アートリンク上野・谷中」を、同じ時期にやっていました。こちらは、かなり国際的なアーティストたちが、身体表現などいろいろな活動をしています。町歩きのワークショップもいっぱいやってきました。

その中で、「上野谷根千研究会」を15年ぐらい前につくりました。いろいろな人のネットワークをつくる中で、今は谷中学校、芸大の学生を中心とした若いグループが育っていった。そこの学生、今はいろいろな大学の学生が来ていますが、研究者と一緒に、谷中の親しまれる調査など、いろいろな調査をし、何年か研究会をやった後、発展的に解消しました。谷中では、NPOみたいな谷中学校という団体ができ、芸大の建築とか環境デザインにいた人たちが卒業した後も、ずっと谷中に居続けて結婚、子供を産んだり、子育てもしながら、活動しています。彼らは、職業は、自分なりに建築の設計や、都市計画をやったり、大学で教えたりもしていますが、ボランティアとして谷中学校をやっています。それだけでは大変なので、事業性、採算性、自立性が出てくるといいと思います。私たち自身もともかく雑誌の売上げが年に1,000万円以上ありますので、多少の労働報酬をスタッフに配りながら、不採算部門にもつぎ込んでおります。

 

バブル経済期の町

 

1986年、1987年ぐらいから目立ってぐんぐんと地価が高騰いたしました。私たちの町でも、住宅地で坪300万円とか250万円という所が、1,200万円という恐ろしい数字になりました。2DKの7万円、8万円だった貸家が20万円、25万円になり、とても普通の人は住めないという感じになりました。今は鎮静しましたが、割合、家賃は下がらない。住宅地はもとの300万円ぐらいに戻りましたが、借家、マンションの家賃は、7万円に戻らない。12、13万円になっています。

一番問題だったことは、古くからある長屋とか、路地の奥に住んでいるような借地借家のお年寄り、年金生活者、そういう人たちをどんどん追い出して、地上げをしてきました。その中で、お年寄りの自殺とか、地上げのために放火され、焼死した人も出て、大変な問題になりました。幹線道路沿いが、乱開発で、どんどんビルになりました。この時期、大手町のオフィス街が、上野、神田、神保町あたりまで延びてきて、神田の古書店街も瀕死の危機だったわけです。

私たちの町にも、いわゆるオフィスビルのようなものが幾つかでき始めまして、その中で「文京の町を考える会」とか「住宅フォーラム」をつくり、それぞれの地域で住民の話し合いをして、自分たちの町の運命は自分で決めようという動きも盛んになった。

 

 

 

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