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次に独特の生活風景、生活文化、美意識が生まれ、都市のアイデンティティーが生まれてくる。ラスキンが19世紀末、ベネチアに引かれて『ベニスの石』という大著をあらわした。何でもないアーチや建築の様式などを近代化して産業化、工業化してしまう。そういう流れの中で、彼は職人の高度な中世風の文化に引かれてベネチアを愛した。

ベネチアのアイデンティティーが大きいモニュメントから小さい街角の風景にまででき上がっていて、どこを歩いてもおもしろいという独特の街になった。

 

多様な価値の共存

 

イスタンブールのお話にもありましたが、多様な価値の共存。つまり、言語、宗教、民族が共存することは世界都市の最も重要なファクターの一つだと思います。ベネチアは16世紀ごろ、人口の10%が外国人でした。外国人には、フィレンツェやルッカやピサの人たちも含みます。また、ドイツ、アラブ、トルコ、ユダヤ、アルメニア人らが、ある程度コミュニティーをつくり、近いところに住んでいる。特に1カ所に集まって住まわされたのは、ゲットーなのです。ユダヤ人が16世紀の早い段階から集められてしまった。といっても、昼間は一般市民が入って、銀行でお金を借りたり、いろいろな交わりはありました。かたい殻に閉じ込められたというのではなくて、ユダヤ人も街に出られた。あとの外国人はほんとうにいっぱいまざっていて、経済の中心、職人の活動などに食い込んで、ベネチア共和国を根底から支えていた。

ゲットーはなかなかおもしろい空間です。ゲットーという言葉自体がベネチアで生まれた。19世紀前半までは地中海都市、トルコも含めてイスラム、アラブの都市は、いろいろな民族、言語、宗教の人たちが共存する体制があった。ベネチアもその一つだった。

海外にも多くの拠点を持っていたことが重要です。有名なのは、イスタンブール(コンスタンチノープル)におけるベネチアの領事館。今、アレッポに行っても、ベネチア共和国の領事館跡があります。カイロ、あるいはアレクサンドリアが特に中心だったのですが、ベネチア人の商館がたくさんあった。海外に出ているベネチア人もいっぱいいた。ネットワークができていたというわけです。当然、ブリュージュのマーケットの広場にもベネチアの拠点がありました。

 

二重構造の必要性

 

次は、二重構造の必要性です。世界都市はだれのためのものか。世界都市であるためには、当然、開かれていて、国際性を持つ。それを空間的にも実現していかなければいけない。だから、開かれた都市構造、シンボリックな中心地があるとか、あるいはメーンアプローチがあるとかが必要です。あるいは交流する舞台、場所が保障されている。サン・マルコ広場はそういう舞台です。水の都市なので、正面玄関も水に開かれている。ラグーラからサン・マルコ広場、これがまさに一番開かれている舞台です。

そこに面してカフェフローリアンという有名なカフェがありますが、この周りに最盛期には何10ものカフェがあった。アーチスト、思想家、旅人と、いろいろな人が集まって、外国人もいっぱいいました。コーヒーが最初に入ってきたヨーロッパの都市はベネチアで、コーヒーショップも最初にベネチアにできたと言われています。サン・マルコ周辺はまさに国際交流の場だった。

もう一つ開かれている軸としては、カナーレグランデがあります。この周辺に重要な施設が集まっています。

しかし、それだけではだめです。重要なのは、その裏手に人々が安心して落ちついて住めるコミュニティーの場が広がっていることです。人口が18万人いたわけですが、外国人もいっぱいいた。その人たちが生活空間としてのびのびと暮らすという、毛細血管のようにめぐっている運河、リオと言うのですが、これが非常に重要です。

現在もそうですが、ベネチアの魅力は、そういうところに人が、大分減ったとはいえ、まだかなり住んでいる。落ち着いた空間がアラブの都市と同じように中庭にもつくられる。これは貴族の館です。迷宮都市は、実はいいんです。二重構造、片方で開く、わかりやすさを象徴空間にはつくる。もう一方で、普通の人たちが住んでいるところはよそ者が入り込めないようにわかりにくくしておく。

 

 

 

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