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13世紀の建物で、2階まで使われています。中は大分改造していますが、2階までのファサードは完全にオリジナルです。どんどん物資を荷揚げするように船着場がついているから、開放的なつくりです。人と物と、それこそ情報がどんどん入ってくるという典型的な世界都市の状況があるわけです。

オランダのユトレヒトから来た画家が描いたベネチアの1490年代の絵をお見せします。彼は聖地エルサレムへ巡礼に行く途中、ベネチアに立ち寄って滞在したときにスケッチをし、それに基づいて描いた絵です。現在の景観とあまり変わっていません。そのころから巡礼の人たちがどんどん通る、一種の観光都市でもあり、東と西を結んでいる世界のキーポイントの都市だったわけです。非常にオープンで、人を受け入れるための宿泊所、スピーツォなどがたくさんあった。しかも建築は美しい。中世はどちらかというと経済の時代ですが、同時に、投資をして、見事な建築をつくって、風景を飾った。

 

繁栄・輝きの持続

 

世界都市としての大きい条件は、繁栄とか輝きをどうやって長い時間持続させるかということです。ベネチアも危機に直面する。オスマン帝国が強くなってくる。喜望峰の南を回ってインドのほうへ直接バスコ・ダ・ガマが行ってしまうとか、物流が大きく変わりつつあることで、地中海支配ができなくなってくる。世界の貿易の中心から外れていく危機があった。実際には交易は続くが、イメージとしては、むしろ大陸の経営、文化、そういうほうへシフトしていく。生き残り作戦を考えて、16世紀、17世紀、18世紀ぐらいのカナーレグランデやベネチア中心部のイメージなんですが、しょっちゅう祝祭が行われて、文化的イメージ、カナーレグランデが東方の物資をどんどん運んでくるという経済空間から、文化や演劇的な場にイメージを変えていく。

貴族の館は17世紀か18世紀前半の建物ですが、フレスコ画で覆われている、舞踏の間がある。東方に進出したスピリットとは違う、文化や政治や都市の建設にベネチアらしさを追求する貴族たちのスピリットがよくあらわれている空間です。

重要なのは、文化が経済につながっていくことです。ベネチアでは16世紀から出版文化が活発になる。ベネチアは唯一、イタリアでも自由で独立した政治条件を持っていた。だから、ローマが略奪され、外国勢力にじゅうりんされても、思想家や芸術家がベネチアに逃げてきました。一種のアジールみたいなところだった。そこで出版や学術的な活動が栄えた。フィレンツェより大分おくれるんですが、ベネチアらしいルネッサンスが展開していく。

そういう流れの中で文化産業が起きてくる。東方貿易よりも国内の手工業が活発になる。それに、貴族、もうちょっと下のクラスですが、非常にクリエーティブな人たちが産業を起こし、それがファッションに結びつく。ベネチアのファッション産業は靴ですが、ドイツの職人たちがギルドとして構えていた館のシンボルマークになっている。こういうファッションに関するレリーフや彫像、マークが街のあちこちにあって、至るところに職人さんが分布して生産活動をやっていたことがよくわかる。それも付加価値をつけてつくっていく体質で、今も持続していると思います。

もう一つ重要なのは、演劇です。フィレンツェと並んでベネチアは公開制のオペラの最初の地です。切符を買って入る。17世紀に始まり、18世紀には大ブームになる。みんな契約してボックス席を持っている。フェネチェ劇場といって、残念ながら失火で失われましたが、このような劇場が10以上ありました。これがまた新しい産業になる。貴族が投資をしてももとが取れる。観光が18世紀、19世紀にどんどん伸びていくことで、文化の時代をシフトしていって、新たな経済基盤になりました。

危機をどうやって乗り越えるか、亡くなられた京都大学の高坂先生がベネチアを評価して、日本もそこから学ぶ必要があると、言っていました。どうやって再生するか、あるいはどうやって豊かな成熟を迎えるか、なかなかおもしろいモデルと思います。要するに底力があるのではないかと思います。

 

 

 

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