当時、堺屋さんが言っていたのは、西洋のほうで言うと、古代ローマから始まって、ベネチアが12世紀から15世紀ぐらいまで、フィレンツェもそうです。アントワープもありますが、アムステルダムが17世紀から18世紀でしょうか。ロンドンが18世紀から19世紀、ニューヨークが19世紀後半から20世紀。回り回って東京に来るというような論で、要するに、世界の経済や文化を引っ張るリーダーとしての都市、主役が世界のいろいろな状況の変化によって移っていく。そういう中での東京の世界都市という議論があった。
確かに、東京が国際金融の中心になるように見えたし、経済だけでなく、文化の発信基地としても刺激的な時期がありました。私自身は世界都市という言葉はあまりぴんとこない。どちらかというと格好悪いのではないかとか、東京のあの時期のおごりとか、逆にコンプレックスの裏返しではないかとか、いろいろな考えもありました。でも、世界都市はわかりやすいネーミングだし、東京の本質を考えていく上でいい設定だと思う。
東京への眼差しがこの間すごく変化したことが世界都市東京という言い方につながったと思います。内側から東京を卑下するといいますか、悪い面ばっかり見ていたのが、少し自信を取り戻して、東京のアイデンティティーや文化性を考えようということで、一連の動きがあった。外からの目も変わってきた。コペンハーゲンの学会で、アーバンセッションがあった。ポール・ウエリーという人がチェアマンをして、「東京は都市モデルかアンチモデルか?」というおもしろいテーマでした。当時、ヨーロッパの人たちも、東京を批判し、戸惑いを持ちつつも、可能性への期待を込めていました。
帰ってきてから考えたことを国際交流基金が出している『国際交流』という雑誌にまとめたのです。東京に来る外国人が非常にカルチャーショックを受けて、東京はエネルギッシュで、なかなか理解できない新しいあり方の都市を見せているのではないか。特に、建築や都市計画の人たちが感じたと思うのですが、彼らのヨーロッパやアメリカの都市のあり方を改革していかなければいけない、変革していかなければいけないという立場から見たとき、新鮮な新しい可能性を提示しているという面も確かにある。私自身は、欠陥も非常に多い都市なので、光と影、ポジティブとネガティブな面を両方掘り下げていくことによって、少しでも都市モデルに近づけられる可能性が見えてくるのではないかという論で書いたものです。
2. かつての世界都市ベネチアの場合
いろいろなことを考える上で一つのあり方としてベネチアのケースを考えたい。ベネチアがある意味で世界都市のトップの一つとして頑張っていたころの話です。
経済と文化・多様な機能・役割
人口は最盛期でも18万人です。ほんとに小さい。16世紀の初め頃です。当時のヨーロッパの都市の人口はたかが知れていて、アジア、中国、アラブの都市は人口が多かった。イスタンブール(コンスタンチノープル)もかなりあったと思います。ヨーロッパでは、18万人もあれば、当時としてはかなり立派な都市でした。もちろん、経済活動が東方貿易で繁栄するわけで、多様な機能を持ちます。16世紀に書かれた鳥瞰図は、ベネチアを上手にあらわしています。島がラグーンの中に浮かんでいて、手前がリド島、他方がアドリア海で、こっちから船がどんどん入っていく。まさに海からアクセスできる都市です。
世界都市として多様な機能が当然入るわけで、世界中、特に東と西の世界を結ぶ中央市場です。いろいろな相場もここで決まる。ベネチアのブカートという金貨が一番強い貨幣でした。世界の経済を牛耳り、12世紀から15世紀まで続く。ベネチアは船乗りのスピリットをものすごく持っていて、危険も冒しながら、オリエントへ貴族のリーダーたちがみずから出かけていく。
リアルト地区の辺りがマーケット、経済の中心です。今のリアルトのすぐ脇ですが、12世紀、あるいは13世紀の貴族の館です。商館で、東方から物資がどんどん入ってきた。2階までがオリジナルです。今、市役所として使っていますが、世界都市として繁栄した時期の面影がしのばれています。