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岡本 おそらくイスタンブールで限定すると、よりはっきりしてくるかもしれません。実は女性の選挙権はヨーロッパより早かったのです。西洋社会を理想化して社会を構築してきましたから、いいと思われるものは早く取り入れた経緯があり、参政権もイギリスよりずっと早い。ブルガリアだとかハンガリーにいた上流家庭の女性が一斉にイスタンブールに入ってきた。故国だと、いつまでたっても深窓のお嬢様で、勉強は続けられないし、結婚を待っていないといけない。イスタンブールでは女性は平等でした。イデオロギーの一面もあって、志の高い女性たちが一気に入ってきた面はあります。

しかし、アナトリア方面から来た女性の地位が高いかというと、一概には言えない。むしろ低い可能性があります。イスタンブールについては、社会変化をいち早く見たエリート女性が国外から入ってきていますので、その影響は非常に大きいと思います。

 

川本 林芙美子の『放浪記』の中に、新宿のカフェで林芙美子が働いていたときに、トルコ人客が来るんです。昭和初めの話ですが、このトルコ人は日本で何をしていたんだろうと不思議なのです。その当時からトルコの人たちは日本に来ていたのですか。

 

青木 日露戦争以降です。いわゆる東洋の旭日の一等国になったから、非常に関心が生まれた。旅行者もいっぱい来た。今度、国際シンポジウムの基調講演をお願いしているヌール・ヤルマンさんはイスタンブール出身です。イギリスで教育を受けて、ハーバード大学の教授を30年ぐらいやっています。大変、日本が好きで、日本はトルコから見ていると一つの理想だったということを言っております。

イスタンブールは、どうして世界都市として凋落したかですが、政治的中心をアンカラに移したことも大きいでしょう。

 

文化の蓄積・伝承

 

岡本 実は逆で、政治の中心が移ったからこそ、イスタンブールはコスモポリタン性を維持できた。つまり、建国の理念はネーションステートで、トルコ人によるトルコ国家ですから、イスタンブールのコスモポリタン性は建国のとき危なかった。そのときに、それまでの文化の蓄積や経済の力をどうやって温存するかということで、一つの策として、政治の中心をアンカラに移したのです。そうやって目をそらすことでイスタンブールのコスモポリタン性を温存したのです。

 

森 ガラタ地区なんかにいたギリシャ人の人たちなどは、トルコ人主流の街になっているときに、どこに散ったんですか。

 

岡本 帰りました。もちろん残った人もいます。実は、住民交換というようなやり方がありまして、建国のときに、ギリシャだとか、トルコの西の国境側のトルコ語を話せないムスリムの人たちと、国内にいるトルコ語を話せる外国人と交換したんです。

 

川本 エリア・カザンの『アメリカ・アメリカ』が、確かトルコでいじめられたギリシャ人がアメリカに行った話です。

 

青木 エリア・カザンはトルコのギリシャ系人に生まれ、追い出されて、またギリシャからアメリカヘ行った。ユダヤ・ギリシャ系です。それはとても複雑な事情があったことと思います。

 

岡本 何年か前にカザンの『アメリカ・アメリカ』がイスタンブールで上映されて、特別賞が与えられたのです。何でこんな人に賞をあげるのか、そこまで頭を低くする必要があるのかと話題になりました。

 

山室 きょうのお話は大変に興味深かったのですが、イスタンブールの世界都市性は、基本的にはオスマン帝国の帝国性なんです。しかし、ネーションステイツに変わっていくときに、雑居性をどう排除していくかという中で、結局、民族化してしまったのが問題だということではないでしょうか。今度はどういうふうにして、どの文化を代表するかということがトルコとして、またトルコ以降の中で問題があったのではないかという気もするのです。キャプチュレーションという領事裁判権なんかも、基本的にはオスマン帝国が先につくったのを、ヨーロッパが逆手にとって治外法権にしてしまった。キャプチュレーションは、オスマン帝国にとってみれば、要するに恩恵として、自治を自由に許してあげる、許容するためにつくったものです。

 

 

 

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