それが世のため人のためにならなければいけない。アメリカのシンクタンクの場合は、ほとんどできていない。流行のテーマばかり追いかけている。設立者の精神はさておき、実際に運営をやっている人はどうしても派手なもの、目先のことばかりやるという弊害があります。ですから、2、3年経っても全部やっていない。また、環境問題を、クジラをやっていますとか、情けないのが多いものですから、ここだけは違うようにやりたいと思い、4つの柱を立てています。
その中の1つに世界都市があります。私の仮説は、国家論に偏していて、国家を超える都市というものに、特に、日本人は考えが及ばない弊害があるでしょう。世界都市があって、その周辺が後から世界国家になるというようなことが言えるのかどうかです。世界国家があって世界都市になることもあるでしょうが、逆順はないものかなと思うわけです。
あるところが世界都市になっていく最初の原動力はスピリットだと思うのです。日本人はすぐ経済力とか貿易の中心とか、あるいは軍事力とかいいますが、その都市に存在したスピリットが問題です。これはヘーゲルが言っていたことです。その精神が持っている普遍性、それは経済や武力とも多分相互に影響してるのだと思いますが、関連で歴史の先例を見て、さて、そこで日本はどうなのかというよりは、東京はどうなのか。それから、江戸論も独特の世界ができてしまっていますから、世界都市東京というネーミングで、東京論をお願いしています。
青木 私自身、東京が故郷で、東京のほかに行くところも帰るところもないデラシネです。実はこれは非常に寂しい人間です。故郷というと、東北だとか九州だとかあって、そこへ帰って、そこに実家があるのは非常にうらやましかったわけです。東京で生まれて、しかも明治までにすでに5代ぐらい江戸にいたということです。父も仕事で地方に住んだことがありますし、私も大阪大学に20年いましたが、墓は谷中にあるし、ほかにどこにも行くところがない、東京の人間の何か不安な存在であるところです。東京がきちんとした魅力ある都市になってほしいと昔から思っていました。東京の世界都市論、これはぜひいろいろと教えていただきたいと思っていました。こういうことをさせていただこうと思った動機の一番深いところはそういうルーツの問題があります。これは私にとって無視できないことです。もう一つは、今、アジアの都市が大変発展してきまして、例えば北京、ソウル、香港、上海、シンガポールなどが非常に力をつけている。外観的に見れば、それらの大都市は高層ビルの林立とか、都市のファシリティーズ、空港、ホテル、生活様式といったものは非常に似てきまして、それぞれさまざまな特徴を持ちながらも、現代都市として発展している。
私は、アジアにおいて都市のメガ・コンペティションが始まったと近年言っていますが、そのことを実感したのは、数年前の初秋に北京にいましたら、紫禁城を舞台にフィレンツェ・オペラの公演があり、プッチーニの『トゥーランドット』を、ズービン・メータ指揮のフィレンツェ歌劇団が公演を8日間やりました。世界中から人が集まってきた。『ニューズウイーク』にはチケット予約の広告が載って、半年ぐらい前からインターネットでもチケットを売っていましたし、7日間は全部外国人観光客のための公演でした。最後の1日は中国人向けの安いチケットでの公演でした。主催者は北京の文化省です。しかも、プッチーニのオペラはオリエンタリズムそのものといっていいようで、荒唐無稽な中国古代に舞台をとった話です。本当かどうかは知りませんが、80年代初めにカラヤンがやりたいと中国政府に申し入れたら、国辱物であるということで断られたという話も聞きました。
そういうことで世界中から北京へ人が集まり、しかもヨーロッパのオペラ公演を見に行く。紫禁城を舞台に貸すというのです。これを見ますと、東京と北京とはどっちが世界から人を呼び寄せる吸引力があるかなと思うと、はるかに東京より北京に人が集まってしまうのではないか。つまり、北京は今、社会主義体制の中でいろいろな不自由がありますし、世界の中心とはいっても、まだ東京ほどには経済的にも発展してはいないし、政治的にも自由がありません。またいわゆる自由主義諸国からの往来も少ないと思いますが、ポテンシャルとしての都市としての歴史、文化遺産、それから、潜在的なアジアの盟主としての巨大な影響力。