しかし、豊かな人間関係というのは、いい言葉でありますけれど、反対に困ったことは、おせっかいやきのオバタリアンとか、おせっかいやきのおじさんというのがいまして、しなくてもよいおせっかいをやくわけです。これが日本の同族意識の中で、おせっかいをやいて、新しいことをやる人の芽を摘んでしまうおそれがあります。
社会環境の中の心の豊かさ
では、新しい文化はどうやって生まれるだろうか。日本人には創造性がないとよく言われることが気になります。いい大学を出て、受験戦争に敗れていない若者たちには、あまり創造性がないのではないかと思われます。しかし、それは必ずしも相反するわけではありません。創造性を持って、なおかつ受験戦争にも勝ったというような、超優れた人たちもいるわけです。しかし、それは日本の1%程度の選ばれた人たちでありましょう。文化をつくるには、受験戦争に敗れた人を救ってやらなければいけないと思うわけです。
受験戦争に敗れているけれども、PTAと日教組の影響を受けなかった人に期待したい。影響を受けなかったのは適切な表現ではなくて、毒されなかった人と、言いたいのです。そういう毒されなかった人たちが、中学時代に落伍をしたという人たちを救えるようなことを東京都の教育施設でやれるようにしたいと思う。そうすると、そうした人達が新しい東京の文化を創造するのではないかと思われます。
『ホモ・ルーデンス』についてヨハン・ホイジンが書いておりますが、「遊び人」はホモ・ルーデンスとは違いまして、ホモ・デメンスという「狂気な人」のほうが、新しい文化を創造するのではないか。常識人間から見ると気が狂っているんじゃないかと思われる人の中から出てくるのではないか。ほんとうの気が狂った精神病患者とそうでない狂っている人とを区別しなきゃならないわけです。ほんとうに精神が狂って非常識な人と、精神は狂っていないけれども、非常識で常識に反抗するような人、とを区別したい。これは、渡辺淳一さんが『反常識講座』という本に書いているので、「非常識」よりは「反常識」のほうが適切な気がして「反常識」という言葉をはやらそうと思いました。常識に反しているということは、新しいものを創るためには、今までの常識に反抗しなければできないはずです。そういうようなことを認め合うような、違った考えをもったグループを認め合うような心の豊かさが社会環境の中になければなりません。
東京みたいなところが国際都市として外国人を受け入れるにしても、異文化を受け入れるにしても、心の豊かさが必要です。ところが、同じようなものの考え方、同じような心の持ち方の人たちだけで群がるという農耕民族的な心の狭さがあるのは悪い点です。早稲田大学には私立大学としての特徴がありそうなものです。最初は個性があったのですが、時が経つにつれてどんどん特徴がなくなってまいります。常に同じようなグループの人間を容認して、異分子が入ってくると、その人達を排除するような、生物学的に病菌を排除するような機構、人間組織が日本にはありそうです。
しかし、ニューヨークはそうでないような都市のように思われます。ぜひ東京という都市も、異文化も、違った物を考える人も容認できるようになりたいものです。そういう素地を教育するにはどうも大学では遅すぎる。独創性がある人は協調性がないということをよく言われるが、必ずしもそうではないように思います。独創性のある人を認め、能力のある人を認め合うという雰囲気が必要です。自分は、ここは得意だけど、他のことは下手で、あいつに任せようという意味でお互いに相補うような協調性が人間関係の中で生まれることが、新しい文化を創造することに関係があるように思われます。
昔、未来工学で、技術はその成長過程によって評価の仕方が変わってくるという話をしたことがあります。文明が進歩するときには、最初、機能性を重視して、信頼性とか経済性を無視してやる。進歩があるところへ行きますと、経済性を考える。経済性と機能性が満足するようになりますと、今度は少し信頼性を持たせるように技術が枯れてくる。