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立川のところで80mです。ただ、立川には大断層が走っていますから、これは裂けちゃうんじゃないか。八王子あたりならばまだもつか、そして多摩丘陵にならざるを得ないだろう。多摩丘陵だと、大体100mを超えています。

それを子細に標高点で見て大学の立地を調べてみたんですが、大学の標高順に書いてみたらおもしろいですね、八王子からあの丘の上に引っ越してきた中央大とか、これが生き残りの最後です。

聖蹟桜ヶ丘に明治天皇の乗馬の騎馬姿があるけれども、あのあたりが司令塔になるかなと見ているんです。そうすると大体僕の関心事というのがその1つで、もう結論が出ちゃうんです。

 

テレメディスンの時代

 

もう15年、20年になりますが、多摩丘陵を中心とした地域に大学がどんどん集まってきた。これはいろいろな法律上の問題とか分散の問題とかがあってなってきたことなんですが、どういうわけか、東京の主立った大学が分校の形で、あるいは教養部の形であそこへ移転を始めました。そして20年前の時点で既に70校を数えている。多摩エリアだけで、今、90近いです。

この知的集積というものを考えてみると、多摩エリアというのはウエストサイドのルネサンスを起こすというので、多摩ルネサンスという集まりを起こして、とりあえず電通大と農工大と都立科学技術大学と一橋、そして都立大学本体が移ってきましたので、それも交えて年に1回シンポジウムをやっています。その97年のシンポジウムが、お手元にお配りしたこのパケットです。

これは、多摩防災センターというか、国立の災害病院が立川に開設されて、そこが実質上の日本のテレメディスンのセンターになっているということで、テレメディスン時代というものを先取りしていると見たんです。そこで荒川委員長を初めとして日本のテレメディスンを手がけておられる方々、ヨーロッパとアメリカを結ぶ大西洋テレメディスンのグループの方々は、同時に遠隔教育から何から全部高速のインターネットでやるということを進めてこられた方々で、その中の代表選手に集まっていただいたわけです。

本当はもっとしっかりできたんですけれども、準備途中の97年11月、メジャースポンサーだった山一証券が自主廃業に追い込まれ、パンクしちゃいまして、結局僕のポケットマネーでやりました。250万円は私が負担、付随分の100万円ぐらいを地元で集めたという格好です。

しかし困ったことに、郵政省は乗ってくれたものの、厚生省がそっぽ向いちゃったんです。なぜそっぽ向いたかというと、「時期尚早である」と。まだグローバルスタンダードが確立していないときにこれをやられると、アメリカンスタンダードを押しつけられちゃう。厚生省としては、三菱電機を中心とする技術開発をしていて、これができるまでもうちょっと待ってほしい、というのが本音のようでした。実に日本的な話です。

ですから実に惨めなシンポジウムで、さんたんたる国辱の姿をさらけ出しちゃったんです。じゃその後うまくいっているのかというと、まだ全然飛んでいない。結局、日本はせっかくのチャンスをこれで逸したなと痛感しています。

というのは、その話のきっかけは沖縄だったんです。沖縄で大田知事が、まあ、何とかかんとか言いながらも橋本内閣からも一応相手にされて、その切り札が、沖縄をテレメディスンのセンターにする。その計画ならアメリカは、ペンタゴンが全面的に軍の技術を開放し、まず那覇からテレメディスンセンターを立ち上げるのに協力しましょうと。

それと対応して、国防総省は、横田の基地にある回線を開放しましょう。東京では立川の災害病院のところが一番いいでしょう。また、それを市民に見てもらえるようにして、立川での開催を支持しますと、こういう話だったんです。

ところが、そのころごちゃごちゃいろいろなことが起こって、大田さんは野中さんとけんかしちゃって、これがまず暗礁に乗り上げ、シンポジウム全体をやろうと言っていたNECも途中から防衛庁問題でバタバタして、山一は自主廃業。結局、何が何だかわけのわからんことになりました。

 

 

 

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