隠居してからの時間を過ごすために、室町の武家文化が生まれます。まずは経典の翻訳が盛んに行われます。能や狂言、それに軍記ものの走りもこの時代のものです。ずっと下って江戸時代になると、ようやく町民の文化ができます。町民文化ができて、演劇だけでなく絵草紙や浮世絵が庶民の身近な娯楽になる。財と寿命が貴族独占から政権の交代に伴って拡散し、庶民に広まる過程を反映しています。しかし20世紀の終わりの現代が何を創造したか。考えてみるとゴルフにパチンコ、カラオケでは余りにも寂しい。少しは目覚めて文化を自ら創造するか、せめてスポンサーになって世代を象徴する文化に貢献すべきです。
人々が支える社会の健全性
高齢化社会は貧困の時代ではない、定年がどうしたというのか、老後の生活が何だ、独立こそ生きがいだと申します。すると「そりゃ先生は才能があるし、地位に恵まれているし、人生順風満帆で苦労がないから、良いように言っていられるけど、我々庶民はどうしよもありません」と反論が出る。さらに反論します。「ご自分の世界で名人上手になりさえすれば、道は自ら開けます」と。この点は先進国と日本ではまだ著しい差があります。先進国と比べると、サービス精神が非常に違います。外国人の私たちが妙なことを尋ねても、親切に応答してくれます。日本は全く逆です。私が実見したことですが、営団地下鉄の駅員にひどいのがいました。老婦人が「何々町にはどうして行けばよろしいか」と尋ねた。すると顎先でアッチと身ぶりで示すだけで、一切口をきかない。不親切無礼も甚だしい。こういう職員は駅長の権限で即時に首にするのがよろしい。海外なら親切丁寧に教える気風が確実にあります。自分の職業に誇りを持っているかどうかの差なのです。
私は東京と大阪の両方に住んでみて、店員の質の差に驚きました。書店で「何々の本」と尋ねたら、どの店員でも即答できるのは三省堂、八重洲ブックセンター、丸善などの東京の書店です。大阪にも、東京から書店が進出して来ていますが、まだ店員の質がよくありません。女性に言わせるともっと差があるようです。ヨシノヤ靴店が全国展開していますが、東京のヨシノヤは客を一眼見ると、これがよろしいとパッと持ってくる。それがピッタリというのです。大阪では同じヨシノヤでも有能な店員がいない。
イタリアでは東洋人の私を見て、店主が一言従業員に命じるとピッタリのシャツが出てきます。不人情当たり前と思われているニューヨークでも、大衆的な衣料品店でさえ店主が勧める品物は信用できます。その代わり「こっちがいい」と言っても「あんたには似合わない」と頑として譲らない。それだけ職人が誇りを持っています。顧客の言うことを聞かないということではなく、顧客が納得するものを勧める自信がある。この差は都会の一流性そのものと思います。
強固なプロ意識の人々
書店、洋服屋や靴屋に見られるプロ気質から分かることは、東京はやはり日本の代表都市ということです。それだけの人材が店員にも集中している。たぶん業界の競争が激しいのかもしれません。それなら新しい街づくりも競争原理を入れて石原都知事の在任中に、都内に小さなモデル地区をつくってもらいたい。東京に大地震が来るのは必至ですから、どこかに大衆向きの堅固な集合住宅を作って全都民に見せてほしいのです。設計は学校のような画一的、無味乾燥な建物でなく、国内外の建築家のコンペで「いや面白い。これなら高所得では入居資格がないから、所得差を税で納めてもいいから住んでみたい」と思わせる街区をこしらえるのです。必要なのは日本の固有文化で、多分、井戸端です。井戸を掘る。資源の利用の意味でも井戸水を汲んで、打ち水で涼みながらお喋りを楽しむ。定年後の人たちも井戸端で碁敵と盤も囲めるし、朝顔を自慢することもできる。そういう街並みを古い長屋ではなくて、耐震性充分の新建築で実現する。そうしたモデル地域を数力所こしらえるのはどんなものでしょうか。お茶の水の神田側の街区で驚くのは、江戸開府のころに、江戸の北からの火災がお城に来ないように、火止めにしていたことです。今は火止めも何もなくなってしまった。中小河川の埋め立てがいけなかったのです。