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香山 そうなのかもしれないですけれども、私はそういう考え方はしません。

例えば僕は村上龍さんと仲がいいんですが、村上龍さんの本のなかで『5分後の世界』という作品がありまして、原爆を落とされても降伏していなかったら日本はどうなっていたかというストーリーで、日本に地下国家ができているとういう話なんです。たまたま今の日本はあそこで降伏してその後のプロセスを経てそのなかで生きてきた人たちが現在いる。だから、日本人論といっても限定されたものじゃないかという、いかにも村上龍さん的な日本論です。いまの岐阜県知事がおっしゃったことは、たぶんその風土とか歴史的にそうなんだろうけれども、マンガを描いている人たちにそういう意識があるかというとたぶん実感しないと思います。

ですから、マンガのつくり方などでも、編集者がネームを入れたりとか、これだと駄目だからと書き直したりしながら生み出しているものでなはいですよね。手塚先生みたいに自分で全部やってしまう。自分が納得いくまで編集者を待たせてしまう。僕は息子さんの真君と仲がいいからよく昔のお父さんの話などを聞いたりしているんですが、いまのマンガを描いている人というのは、昔からマンガしか描いてなかったんですよね。その意味では、表現手法がたくさんあるもののなかでマンガという方法論にたどり着いてそれをやりたかったということではなかったりしている。ですから、たぶん、僕以上に本人たちがその議論を聞いたときに一番違和感を感じる可能性というのは多々ありますね。

ゲームもそうなんです。ゲームというのは実はすごい総合芸術なんです。60分の1秒でキャラの体を動かしていったりしていくんだけれども、切れ目がないように肘のところが切れないように、それをプログラムで補整かけていったりするんです。多くの人がいろんな技術といいますか文化的な考え方も含めてギュとスクラムを組んで最後作品に仕上げていくんです。つまり、その切り取る過程というか、こういう形にするということを決めている人間がマンガ同様一人しかいないということなんです。映画でいえば監督権脚本家みたいな部分ですが。最後はその人の価値観に依ることになるのですが、パーツパーツで見たらその人の価値観とは違うことになったりしているんです。

 

 

 

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