岐阜県出身の古田織部という方は、現在の本巣町、山口城の城主の息子で、信長に仕え、秀吉に仕え、家康に仕え、それから秀忠の茶の師匠までやった、武士であり、茶人です。第一線で戦いながら、かつ、茶道を千利休の高弟として極めた人なのです。
なかなかおもしろい人で、秀吉が小田原城攻めをした時のことです。長期戦で城を取り巻いて兵糧攻めにしていた時に、織部は竹藪に入って、茶杓にいい竹を一生懸命探しておったら、余り敵陣近くに行き過ぎて鉄砲で撃たれ、額にかすり傷を負った。こういうおもしろい人なのです。
その織部が、安土・桃山時代を創造した一番手だと思うのです。千利休を超えて新しい文化を開いた。千利休がそれを肯定しておったと言われているのです。秀吉に「わびさびから武士の茶道を起こせ」と言われて、大体美濃焼は大振りで、武士が飲むのにふさわしい茶器になっていますが、あの人が華々しい織部好みというものを打ち出した。釉薬も、今までなかった緑の釉薬を使う。それから、デザイン、文様も、南蛮の十字などを取り入れる。織部灯籠というのもあります。それから、形もそれまでは真ん丸でなければいけないとか、形が整うということが製品としての要件だったのですが、織部はわざとこれをグッと曲げたり、場合によっては壊して接いで使う。それから、ひびのあるのも結構と。そういう、全く従来と違う価値観を打ち出したのです。
一世を風びする力があったものですから織部好みが流行したのですが、家康に、徳川家への謀反、豊臣家への内通をとがめだてされて、自害するわけです。一言も弁解なしに。丁度、千利休と同じ運命をたどったのです。
千利休が秀吉に自害を命ぜられ、利休が淀の渡しで立ち去る時に見送ったのが、この古田織部と細川忠興の二人です。時の最高権力の秀吉に咎め立てされたら、それこそ自害させられるかもしれないという危険を冒して、師匠を送っている。千家はそれで一旦断絶するのですが、織部が秀吉に頼み込んで、千家の復活をしたのです。それで、今日の、表だ裏だという千家が繁栄を誇っているのです。
これは、秀吉が倒れて徳川の時代になったからラッキーだったのです。