約半年ぐらいかけて、大体アーティストが15〜16人、エンジニアが30人ぐらい、45名ぐらいになりました。住むところもないので、研究室の中にベッドをつくりまして、一銭もお金がありませんので、私が稼いできた金で、「大村財布」というのがありまして、そこへお金を入れておきまして、それでそのアーティストたちは飯を食っていたわけでございます。
そうこうするうちに、1年もたちますと、一気にレベルが上がりました。
その1年間で非常に苦労したことがございました。それは、エンジニアたる学生とアーティストたる若い人たちの意思疎通が全然うまくいかない。同じ日本語を使ってるのに何でこんなに意思が通じないのか、ということがございました。考えてみたら、小学校の1年のときから、君は理工系とか、君は文科系とか言われて、そこから分岐しているわけですから、全然違うわけですね。話が通じない。今でこそそういうことはございませんが、1981年当時ですから、すさまじい落差がございました。その間に立って非常に苦労した覚えがございます。
ヨーロッパ・アメリカその他で発表いたしまして、グランプリを総なめいたしました。ロンドン、パリ、モナコ、アメリカ、ドイツと、あちらこちらで、2年間ぐらいでいろいろなコンテストのグランプリを山ほどいただきました。
1981年というと、82年に世界最初のCG映画「トロン」というのが封切られました。アメリカでちょうどプロダクションが5つぐらい生まれた年でございます。日本では、東宝の副社長の息子さんの金子さんがJCGLという日本初ののCGプロダクションをつくって立ち上げたばかりでございました。
JCGLというプロダクションは、アメリカにありましたニューヨーク工科大学の技術を全部輸入してつくった会社でございますが、CGのコマーシャル、あるいは、番組のイントロダクションとか、そういうものがぼちぼち目にとまるようになった時代でございます。
グランプリをたくさん取りますと注文が来るんですね。電通なんかで私が講演しますと、そのあとプロデューサーさんから、こんなコマーシャルができないかとか注文が来ます。