私、ずっとこれを思っていんたですよ。何でも説明するから考えなくてもすむ日本人を作り出したところに、マンガの悪いところがあるのではないかと、ずっと私は思っていたわけです。テレビもそうなんですけれども、ドラマなんかにしても全部台詞のなかに説明が入るわけです。「あなたのおばさんの何とかさんがあの昔に何とかしたときに、あれと同じことが今あるのね」みたいな台詞で、全部説明するから、誰もイマジネーションというのはわかないというふうにずっと私は思っている。
それから、同じことが今の流行っている歌でもそうなんですけれども、あれは推敲したのかと。あの歌詞は全然削ぎ落としてないじゃないか。風呂のなかでフニュフニュと鼻唄で出てきたものをそのままレコードにしたってたまるかっていうふうに、私なんかは思うわけです。俳句のあの削ぎ落とした日本文化はどこにいってしまったのかと。
ところが、皆さん、先ほどお話ししていましたら、その日本人のほうがイマジネーションがあるというふうにおっしゃった。私はどうも違うのではないかと。たしかに、何かこう言えばこうというのは、みんなの共通の発展というのはあるけれども、それは逆に言ったら、今までいかに日本人というのは枠にはまっているか。定型に入っているか。同じ方向にみんな行く。これはイマジネーションといわないのではないか。
そして、外国人がバラバラで、こう言ってもこうしてもこう行かないというのは、みんなが本当に個がそれぞれバラバラであって、一つのところに集約されないんじゃなかろうかというふうに私は思っています。
今、若い人たちのいろんなあんな変な事件が起きているのは、その目で見たり、説明されたこと以外のことまで思いが馳せられない、そのイマジネーションのなさなんじゃないかというふうに私は思っているんですが、あえてアンチの部分で皆さんに、本当にイマジネーションがあるのかないのか、ちょっと投げかけたいと思います。
牧野 ありがとうございました。では、続けてまいりましょうか。今の関連でお話しくださいますか。