日本語の場合には漢字仮名まじり体で、いろいろな要素が生きているけれども、その要素を生かした言葉の遊びができるとか、そこでも一つの日本のマンガの特徴、ある深さが出ているんだと思います。
牧野 ありがとうございます。
山口さん、先ほどディズニー型の一秒24コマのフルアニメーションがアニメーションの本来であり、それを省略して3コマにして変えてしまう日本のやり方。更に、カメラワークで動きがない部分を補ってしまう。その究極がピカチュウの点滅であったというお話を伺いました。私も職人でありましたから、24コマのフルアニメーションができない人たちのコンプレックスが痛いほどわかります。しかし、それは悪いことばっかりではなくて、カメラワークとか間の取り方、そういったものが日本のアニメーションを引き上げてきたんだということを、先ほどおっしゃいました。経済上仕方なかったからやったんだと言いながら、実は、一方でそういった私たちの感性、間の取り方、間のなかで何かを読み取っていくこととつなげて考えられるものでしょうか。
山口 先ほど、フルアニメーションとリミテッドアニメーションということを言いました。日本は、スケジュールと予算とで後ろのほうから追い立てられながらその隘路を経て独自のジャパニメーションという境地を切り開いたと申し上げたんですが、本来、アニメーションというのは、これからCGの時代になってもそうだと思いますが、どうしてもリアリティに近づこうというのが、志向としてあると思います。アメリカでもディズニーの同時代に「ルシタニア号の沈没」というアニメーションがあります。これはドイツの潜水艦にやっつけられて客船が沈む模様をアニメーションで再現しようとした作品であります。機雷の攻撃を受けて沈んでいく状況を、アニメーションで再現したマックス・フライシャーの作品であります。事実の再現となると所詮実写にはかなわない。記録映画の分野であって、アニメは到底かなわない。ディズニーがなぜフルアニメーションに最後までこだわったか。