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そのために美的な完成度を犠牲にしてでも、という状況がありまして、美術大学のなかでマンガを取り上げるというときには、一番障害になるのが、画面上の美的構成という点ではないでしょうか。これは一方ではどんどん無駄なものをはぎ取っていって、美的に構成するわけです。福田繁雄さんなどとも議論するんですけれども、アイディアのエッセンスを残してどんどん削り取っていって、それでしかるのちにそのエッセンスだけを相手に伝えようとするんですが、マンガの場合はありとあらゆるものを詰め込む。

先ほど小野さんが言われましたけれども、野球マンガのなかでたった1球投げるだけで、ああでもない、こうでもない、昔はこうだった、あのときの印象はこうだった、というようなことをどんどん書き込んでいって、ピッチャーがまだ1球も投げないうちに30ページが終わってしまうというようなことをやって、読者も怒らない。描くほうもそれを容認しているというような世界がある。これはもちろんマンガのなかの一つの表現には違いないんですが、そういう独自の発展をしたなかに、私たちがもっているいまだに象形文字を使い、しかも一方でその象形文字から発した仮名文字というものも使っておって、そういったもの一切がまた絵のなかにぶちこまれていると、そういうような世界というのは、これは美術なのか何なのか、実はわからない。わからないのに、絵であるために絵の評価基準で、それをうまいとか、下手とか言ってしまうものですから、読者も描いている者も混乱してしまう。

ついこの前まで、悪書の代表であったものが、突然IT革命の寵児であるかのように言われ始めたりする。この間の説明というのは一切ないわけなんです。この辺がマンガの現場にいた者としては、おやおやという感じで、「あれれ」「レレレのレ」で、そういう感じで言うんですが、今のお話を聞いていて、小野さん、読み取り、つまり書き手の能力ももちろんあるんですが、非常に幅広い質の高い読者はたくさん存在して、その人たちがしっかり映像とかそこに書かれているものを読み取っていく。そういうキャッチボールのなかで日本のマンガ・アニメーションというものが成立してきたのではないかという考え方がありますが、そういうことに対して小野さんの見解を聞きたいと思いますが、いかがでしょうか。

 

 

 

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