結果的にそういう説明を挿入したそうですが、私がそれを子供に言いますと、日本でそんなこと絶対できないと言われる。日本で最初のほうに、「この涙にはそういう力がある」とどっかでチラッとでも言ったら、もう子供は「これは主人公のサトシは死ぬんだな」、「みんなが涙を注げば生き返るんだな」と先を読んでしまう。だから、日本ではそんなことできませんよと。こういうのはたくさん読んでいるからこそ身につくリテラシーです。
日本はそこまできているんですね。リテラシーというのは社会的に共有されるものであって、個人が頭いいとか悪いという話ではない。子供全部がそのレベルに日本は達している。で、アメリカはまだ達していない。たくさん見ていると、そういうリテラシーがつくわけです。西部劇などでも、「あ、これは殺されるぞ」と顔を見ただけで最初にわかってしまう。こういうものが社会的な文化なのではないでしょうか。
そういう意味では、日本のマンガは進んでいるというか、普及してしまったからそれにともなう特異性があるのかなと。そういう共有されたリテラシーというのを一つ、お答えにしたいと思います。
それからもう一つは、源氏物語は女性が書いた世界で最初の立派な長編小説であると、こう言われております。その頃男性は漢字、漢文で日記や手紙を書いていたわけです。男性が書くものには、漢文がもっている病気が知らず知らずに移っていただだろうと思います。というのは、漢文は中国の宮廷、政府のなかで発達したものです。当時、女性の役人はいなかったわけですから、まさに男性文化の中で発達した。それを使って多少は物語も書く、あるいは詩も読むことはあっただろうけれど、それは男性のものであった。特にそういう宮廷インテリの世界では女性は対等の存在ではありませんでした。したがって、当時の中国には蝶々喃々の恋愛小説ってないんですね。赤裸々なセックス文章はあるけれども、蝶々喃々の物語は漢文にはまったくなかった。これと同じことが漢字を使っていた日本にもあった。ところが、時あたかも平安時代。平和な時代が何百年も続くと、日本では自然と男女対等に変化していった。