日本は、分業というのがあります。例えば、さいとうたかをさんが「ゴルゴ13」を描くと、背景は誰に描かせるとかスタッフの名前が作品のあとにずらずらと出てきます。それは、しかし、アシスタントを使ってはいますが、「ゴルゴ13」の看板はあくまで「ゴルゴ13」です。さいとうたかをタッチでキャラクターを描くようにするわけです。ところが、アメリカの場合は、スパイダーマンがある号と次の号で違っていることがあっても、それは、その画家の個性ということで、逆に評価されるようになったんです。それもアメリカで70年代ぐらいから。だから、出版形態が違うんです。画家の問題、今申し上げたように出版の権利をもっているところが違う。だから、どこでも、キャラクターを大事に同じタイトルのマンガをずっと続けているわけです。
日本のマンガの特異性というのは、簡単に言えば、技術的には非常に早く読めるマンガという面だけが世界で突出して日本が進んだわけではない。もちろんテーマもその間に多様化していったので、今日本では、どんな題材でもマンガになるんです。経済的な問題だろうが何だろうがなると、これもまた世界でも非常に特殊なんではないでしょうか。特殊でないというか、マンガはあらゆる事象というのですか、世界をマンガに取り込めて、それぞれの作品に読者があるわけです。成り立つということです。だから、オウム真理教でも宣伝にマンガを使いました。そういうことがあり得るわけです。ですから、変な話ですが、体制もマンガを使う。経済白書がマンガになる。しかし、どこかの食品の問題でもいろいろ添加物があるとかそういうことを逆に比判する人たちが、またそれをマンガにするということもあり得る。だから、マンガの役割というのは両方です。体制も反体制もマンガを使う。それだけの受容性がある。
それと、日本はもう完全に環境はマンガとかアニメ化しました。例えば、アメリカ人の漫画家を東京を案内するとき、簡単なことですが、JRの駅にいって切符を買おうとする、お金を入れると何か画面に出る。画面に女性が顔を出して「ありがとうございました」と声を出してお辞儀したりする。ああいうのにまずびっくりします。「あ、切符売り場もアニメ化している」というようなことを言うんです。それは一つの例だと思います。