例えばアメリカの場合は、御存知のように「スーパーマン」と「バットマン」。あれは、僕が子供のころは1冊10セントで売っていたんですが、内容は32ページぐらいの薄っぺらなものです。さらに、全部カラー印刷。32ページといっても、広告が入りますから実質二十数ページです。その厚さの形態というのは変わらないんです。簡単にいうと、ヨーロッパも違いますが、ここはわかりやすいようにアメリカを例にして言いますと、日本の少年マンガ週刊誌というのは、1959年に創刊されたときは薄いものでした。今はもう300ページぐらいあります。おそらく、僕の考えでは、その300ページの今の「少年マガジン」を読むのと、創刊された60年代はじめごろの「少年マガジン」を読む時間はあまり変わらないと思うんです。つまり、300ページあっても、日本の読者はそういうマンガの読み方をずっと身につけて育ってきているわけですから、早く読めてしまう。僕もかなり早く読みますよ。こんな厚くても流し読みしてしまって、内容がわかります。そんなに早く読んでいても、細かいところにミスがあるとか、手を抜いているなんていうのは、読者はみんなわかるわけてす。
例えば、こういうことは面白いかもしれませんけれども、例えば自動車というのが出てきます。オートバイや自動車がマンガのなかに。50年代、つまり僕の子供のころのマンガは、手塚治虫のマンガもそうですが、自動車は自動車であればよかったわけです。適当に自動車が描いてあれば、オートバイも適当にオートバイであればいい。今はそうはいきません。劇画のなかにオートバイが出てくれば、それは非常に正確に描いてあります、例えばヤマハの何の種類とわかるぐらい。車も何かわからない車というのは恐らくないと思います。未来的な内容で存在しないスーパーカーを描く場合はもちろん別です。カメラが出てくれば非常に正確にカメラを描く。例えばアメリカのマンガを見たりすると、「スパイダーマン」の主人公は高校生だったのですが、彼がカメラを持っているのをみると、恐らく日本のカメラというのはわかるんですが、適当にただカメラらしく描いているだけです。