そして、シンガポール国立大学から東大にきておられる先生の極めて興味深いコメントにまいりますけれども、いかにして大国が、グローバリゼーションによって平たんにならされてしまっている状況に対して取り組んでいるかといいますと、共同体の意識を確立できるところまでのところで守られている価値の観念、そして感覚ということに対して、自分自身の価値を守り抜いていくということのために確立していくというやり方が行われています。私自身としては、こういった共同体グループがもっている普遍化、ユニバーサルの動きに対して逆うことができる力については、例えば私たちが今扱っているコミュニケーションの中においても、内在しているものに対してどこまでやれるかといえば、ちょっと悲観的に考えています。すべての動きというのは逆の流れを示しています。共同体、そしてまた閉鎖されたシステムは、結局、分裂をみせています。
マルクスとエンゲルスは共産党宣言の中で19世紀に既に指摘していますが、金に基づいたブルジョワのあり方ということは、結局はすべての障壁を崩してしまうのではないか、国はどれ1つとしてこれに逆らうことはできない。富と力がすべてを支配するので、間もなくはブルジョワ革命が―ブルジョワ革命とは、すなわちグローバリゼーションと同様ですけれども―世界を凌駕するであろう、世界を支配するであろう、ということを指摘しています。従いまして、このハリケーンに逆らい切れるかということについては悲観的です。
○青木 モデレーターの大河原先生がおっしゃった、Eメールとかインターネットが英語を中心に展開されていることは事実です。それによって我々の表現力というのはどうなるのかというお話があったのですけれども、それについて、ナンディさんなどが、異言語、自分の言語と違う異言語との遭遇によって、そこに翻訳という作業が出現した。翻訳という作業は、意外と創造性に結びつくというお話がありました。
例えば日本の近代・現代文学というのは、ほとんどが翻訳調といわれていまして、これはフランス語や英語、あるいはロシア語といったものと日本語との近代における出会いを抜きにして考えられないわけです。ですから、明治時代以降、江戸時代まで使われていた日本語というのは、ほとんど姿を消してきて、いわば新しい言語に生まれ変わって、現代文学というのができている。そこからノーベル賞も2人出たわけであります。こういう例と、現在のEメール的な伝達様式とどう違うかというのが大きな問題です。
私は今の職場に来る前に、東大の理科系の研究所の教授をしていましたが、そこで、専門分野では世界的に知られるような先生に、ある外国人に、日本の国際会議に来てくれないかという連絡をお願いしていたのです。するとその先生は、Eメールでやりとりして、今度はいつだったら来られるというようなコレスポンダンスの往復の内容をプリントアウトして、私にみせに来たのです。そうしたら、日本の中学生でも使わないような英語を大学者、大学教授が使っているわけです。というのは、「コンファランス・オン・トゥエンティー・セブン。ユー・カム・イエス・オア・ノット?」といった具合です。内容など何も説明しないで、「ユー・カム・オーケー?」とか、ともかく、そういう小学校の英語みたいなものを使って、それで来るとか来ないといっているので、これは内容は何も説明していないではないかといおうと思ったのですけれども、専門的に偉い先生の使うEメール英語通信の一端が判った気になりました。それで結構通ずるともいえるわけです。