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そして、このようにしてグループになった人間がやっていくべきであるし、人権と民主主義に従って、アジア・コンテクストの中で再定義づけが必要かもしれない。低いレベルではなく、別なレベルで、こういうことは全部話すべきでありますし、定義をまた確立させていき、これがこうだとやり直すべきです。

そしてさらに、私たちはこれからどの方向に向かっていくべきなのか。さきの発言者の方が、これからグローバリゼーションの定義づけはどうなるのかということについても含んでいらしたかと思いますけれども、まだ、本当にこのプロセスの初期段階だからこそ、こんなにも混乱していて、いろいろな定義が飛び交っているのではないかと思います。ローカルな地域の状況をみていきますと、それぞれが異なっていて、そういった相互の交換や交流、働きかけ合いというのは無限の組み合わせがある。

そこで、定義づけるではなくて、もうファジーなままで置いておこうではないかということを提案します。どういう意味でファジーかというと、知ることができないことについては、もう知らない。そして、無意識の段階、意識下の段階で何が正しいのかを知っていくということができようかと思います。日本の皆様とお話をしていくところで、また、アジアの皆様とお話しする中では、そういった意識下の世界、非合理の精神の中における理解の方が、場合によってはもっと重要で、もっと大事かもしれないということを、個人と集団の中において、皆様、ご理解いただけるかと思います。理性的に、合理的にやっていくということよりも、もっと重大なこともあり得ます。

 

○モデレーター フロアからお1人の方の手が挙がっておりますので、その質問をお受けになった上で、ヤルマン教授、青木先生から、お答えいただけますが。これを最後の質問にいたします。

 

○質問者D ありがとうございます。シンガポール国立大学から、現在東大で客員教授として教えています。

実に幅広いフィードバックが出てきたということで、なかなか感心していますけれども、後戻りがきかない、すべてを飲み尽くすグローバリゼーションの力ということについて、私はやや心配になっています。明らかに、私にとってもっとおもしろいのは、グローバリゼーションの限界は何であるのか。私自身は、グローバリゼーションは文化的な知識の1つの形態であり、ほかのものと競い合いながら、それぞれの社会の中でやっていくべきではないかと思うのです。まず、国民国家といったものと、コミュニティーグループ、集団グループとが、そういった文化的な知識の中であります。その中において、グローバリゼーションがさまざまな意味で挑戦を突きつけられています。

マレーシアの小さな国ならば、近代化、そしてまた経済の発展のためにグローバリゼーションが必要だから、マレーシアでは、実はマレー人がグローバリゼーションから最も多くを享受する。なのに、彼らが、ブミプトラでありながらも、国民国家に対しても、グローバリゼーションに対しても、逆行し、反動している。個人だけではなく、集団としてもそうみられています。

 

 

 

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