第三に、グローバリゼーションは、伝統的なヒエラルキーを覆す傾向をもつものです。つまり、グローバリゼーションは、伝統的なヒエラルキーが有する技能や有利性に対応していないものなのです。これは、専門職技能や政治の抗争の変化、それにかかわる階層の変化、従来から開かれていた経済、例えば、娯楽としてのスポーツ観戦と娯楽産業ということなどについてもみられるようになってきています。
以上3つの点をここで挙げましたが、私たちの人生においてグローバリゼーションが果たす役割があるということがわかります。そして、これは各地域、各社会の中においてみられる役割です。
第四に、グローバリゼーションが行わないこと、できないことについてお話しします。
まず、グローバリゼーションは、結局、消費主義を内包しているものであり―将来的には何らかのグローバリゼーションで、高度の消費を促進させない、それを行わせない方向に向かっていくものがあるかもしれませんけれども―現地点では、グローバリゼーションはほとんど自動的なまでに消費を促すものであり、それは際立ったミステイクタイプの消費になります。そのために、依然として多くの貧困層を抱えている社会の中においては、グローバリゼーションは、すさまじい格差を生み出し、そのために暴力と犯罪率の高まりを呼び起こすものです。グローバリゼーションによって大都市圏などにおいては、目をみはるほどの犯罪率の増加を引き起こしています。非常に目立った形での消費がふえていくということは、同時に、ある意味で伝統的なエリートがもっていた正当性を破壊するものになります。たとえばエリート階層の一員たるものは、どうやって消費を押さえ込むのかを知るべきとされていました。イギリスの資産階級で、新しいスーツは絶対に身につけない人たちの慣行に見られるように、です。つまり、まず必ず執事に背広を着せて、ある程度なじませた後でそれを着るということがならわしでした。そこで、上流階級の集まりのときには、ぴかぴかのおろしたてのスーツは身につけないで済むようにするのが、紳士たるものの務めでした。
第五に、グローバリゼーションは個人のためのそういったあり方について、ある程度の可能性を拡大させていきますけれども、集団に対してはそれは可能ではない。というのは、個人は守ることはできるけれども、集団としてグローバリゼーションを拒否することはできません。先進各国においては、代替的な生活のあり方、オルタナティブ・ライフスタイルといった動きが出てきています。けれども、これは個人の行動ではなく社会の規範を定義づけていくものです。集団の中で生きていきながらも余り多くのものを消費せず、それ以外では健全な形でやっていったとしても、グローバリゼーションのもとでは、こういった集団が大変な圧力を受けることになります。
そして、最後になりますが、最も危険なグローバリゼーションの要素として挙げられるのは、グローバリゼーションは、ビジョンのさまざまな亀裂を生み出していくということです。グローバリゼーションの波の後で、いかなる社会であったとしても、ほかの望み得るビジョン、望ましい社会についてのビジョンということをつくり上げることはできなくなっていきます。