グローバリゼーションの名の下で今行われていることには、否定的な様相を示すこともあります。それは、機械が人間をますます管理するということであり、いまや急速に機械管理の時代を迎えているということも事実であって、この側面を見逃すわけにはまいりません。マックス・ウェーバーが20世紀の初頭に書いた合理化の過程が、その極限を迎えようとしているともみることができます。アメリカの社会学者のジョージ・リッツアは、「マクドナルド化現象」こそまさに合理化の過程の極致であるといっておりますけれども、合理化というものは、チャップリンが「モダン・タイムス」という映画で描いたように、機械に管理される人間のカリカチャーをいま行われているグローバリゼーション現象の中で非常に極端まで推し進められている。つまり、情報技術、情報機器といったものが、銀行や金融システムからいわばコンピュータ管理のセンサーによって人間の心臓まで支配しており、これが一旦破綻したら文字通り人間と社会の心臓の停まる恐ろしい時代が到来し、世界の市場システムも混乱してしまうのです。
日本の場合は、世界的なグローバリゼーションの影響を受けると同時に、日本的なものを必ずグローバル化させてきております。日本の文化産業、例えばコスメチックの領域では資生堂などの商品が出てきたことは、以前はフランスやイタリアの専売だった高級ブランドの化粧品や香水なども、日本が同じレベルでフランスにもアメリカにも影響を与え、しかもアジア市場も席巻しつつあるという現象が報告されています。これは、西洋から始まったハイカルチャーの文化産業的な土壌において、グローバル化のもとで、日本のローカルなものがグローバル化してくという現象です。日本の経営というのは現在破綻したように批判されながらも、実は非常にしぶとく西洋的な経営やアメリカの現在の企業経営に大きな影響を与えるとともに、その基本ラインというものが全然壊れていないという指摘があります。また日本の経済学者をはじめ日本の学者や知識人の間においては、グローバル化によっていわば欧米の影響を非常に強く受けながらも、その成果を単に引用するとか参照するだけではなくて、日本的な現実の中で問題を練り直し新しい問題提起として発信しようとするローカルな知的反応が、現在強くみられるということであります。
グローバリゼーションの展開にはこれまでみましたように、いろいろな複雑な過程を含みますので一言ではいえませんが、私がここで日本の例として申し上げたかったのは、こういうさまざまな非常にはっきりと顕在的にみえるグローバル化現象―マクドナルド化とか、ファストフード化といった現象の中においても、ローカルなものがグローバル化する契機がそこに潜んでいるということです。これは、単に日本だけではなくて、もちろん韓国においても、中国においても、あるいは他の東南アジア諸国においても、それぞれのところがさまざまな形で世界の多中心化における一つのセンターになりつつあるということでありまして、グローバリゼーションをあまり単一に、一方的な形としてとる必要はないだろうと考えるのです。