自分の勤務のときに亡くなる人がいると非常にショックで、先輩から「あなたを選んで亡くなられたのよ」と慰められたこともあります。
それでも、どうしても悔いが残ってしまう利用者もいます。「あのときこうしていればよかった」とか「違う方法をとるべきだったのではないか」と考え、看護婦としての判断や行為が間違っていたのではないかという後悔の念で落ち込みました。私は、信頼している主任看護婦に後悔の念をうちあけました。主任が自分の経験を話してくれたことで、他の看護婦も同じようなことを感じていると知りました。
その人が生きていた証と共に
その後、私の父が悪性リンパ腫を発症し、生死の境をさまよう日々が続き、病状が悪化して帰らぬ人となりました。
父を亡くしたばかりの頃は、「死にたい」ともらす利用者に怒りがわいて、その感情をもてあましていました。そのような感情を抱いてしまう自分に失望し、知識として理解しているはずの対応ができない自分を未熟だと感じる日々がしばらく続きました。
しかし、父の闘病生活とその後の一連の出来事は、私に生きることと死ぬことを考えるきっかけをくれました。父の体は無くなり、現実の生活のなかには存在しなくなり、残っているのは父が作ったものと、私たちの心のなかの存在としての父だと感じました。死の世界のことはわかりませんが、この世に生きていた証は、作り出したものと、生きている人の心のなかに残ることなのかなと思うようになったのはこの頃からです。
そう考えると、悔いが残る利用者というのは、いつまでも強く心に残るのです。決して忘れることはありません。その人が生きていた証と一緒に私は生きていく、それで良いのだと今は思っています。
私自身がいろいろな経験を経て、そう思えるようになったのですが、その第一歩は主任によるケアだったと思います。「忘れなさい」というのではなく、その経験を抱えて生きていくことを示唆してくれたのだと思います。