私たちが誰かと触れ合い、誰かの存在の影響を受けるとき、私たちはその誰かの<魂>に触れているのだと思います。だから、私たちはその人からさまざまな影響を受けるのであり、傷つくこともあるのでしょう。信じ愛している人からの<存在のねぎらい>としてのケアの言葉やケアの態度は、私たちを<幸せ>にし、明日を生きる勇気と自信を与えるでしょう。しかし逆に、酷い言葉を投げかけられたり、裏切られたりすると、私たちは生きることに絶望し、自分の存在性を否定的に考えることもあるかもしれません。
私たちは、ケアを介して<魂>を交流させ、互いの存在を肯定しているのです。ケアとは、私たちを<幸福>へと導く、私たちの存在性に根ざした関わりであり、私たちが生きている限り他者と関わらなければならないとき、私たちが意識するにせよ意識しないにせよ、私たちの<生>がもたらす<糧>となるものだと思います。
6 おわりに―<存在することのケア>に向けて
私たちの社会は、良い意味でも悪い意味でも、個人主義的な社会です。個人の権利が尊重され、自己決定と自己責任を基本にする個人主義的な社会では、本来、「他人を傷つけなければ何をしてもよい」という自由主義の原則が貫徹されています。しかし、個人主義の社会を生きているはずの私たちは、自由主義の原則にしたがって他人を傷つけずに生活することが難しいことも実感しています。私たちは、他人の権利や主張を阻害しないと思って行動していても、いつ、どこで、どのような形で誰かを傷つけ、権利を疎外するかわかりません。私たちの自覚・無自覚にかかわらず、私たちの行為や発言によって、誰かが傷つき、権利を侵害されている可能性は避けられません。
私たちが独りで生きていけない存在である限り、他者(=他人、自然、ものなど自分以外の存在)との関係性のなかで生きていかざるをえません。