日本財団 図書館


ここでひとつのエピソードを紹介しよう。

私は今でこそお寺の住職だが、坊主になる前は、ある総合商社で働いていた。その商社時代、インドの方と仕事をする機会があった。親しくなると、彼は私に「あなたの宗教は何ですか」と尋ねた。そんな質問をされた経験のなかった私は困った。『家にはたまに黒い衣を着たお坊さんが参ってくるけれど、お話を聞いたことさえない。それで仏教者というにはおこがましい』と「私は無宗教だ」と答え、「日本にはお寺や神社がたくさんあって、初詣とか多くの人がお参りするけれど、それらは単なる習俗というべきもので、何かを信じているわけではない。実は中身は無宗教なのだ」と続けた。

するとインド人の彼は『そんな変なことが、この世の中にあるのか』というような顔をして「君は無宗教というけれど、それでは君は物事をどうして決めているのか」と問いかけた。生まれて二十数年間そんな問いを受けたことがなかった私は、この問いにも困ってしまった。しばらく考えて「それは、自分の信念に基づいて、よかろうと思うことをし、アカンと思うことをしないのだ」と応答すると、彼は私を指さして「それがお前の宗教だ」と言ったのである。

もちろん、そのときは私には何のことやら訳がわからず、「変なこと言うやつだなあ」という程度で過ぎてしまっていたのだが、それから数年して縁あって仏教を志すことになり、ある学校で体系的に仏教を学ぶなかで、その出来事を思い出したわけだ。『ああそうか。あのインド人は、このことを言っていたのか』と。

「宗教」と言うとき日本人は、それは自分の外にあって、自分が困ったときや苦しいとき、悩んだときにもたれこみ、すがりつくものと思っている。それに対し、そのインド人が言う意味は、宗教とは『自分の奥底深くにあるもの。自分が考えたり行動したりする、その根本の基準になるもの。それを宗教と呼ぶ』ということである。

だから、その人に悩みがあろうとなかろうと、その人が苦しみを感じていようといまいとかかわりなく、本来、人間存在にとって宗教は必須のものなのである。

坊主バーでの話題は、政治、経済、社会、宗教とあらゆる分野に渡っている。そして、そのことと自分自身とのかかわりが、そこでの話し合いを通して見えてくる。

 

「癒し」とは

最近、癒しとかヒーリングという言葉をよく聞く。そしてそれこそが宗教の役割であるといった論調もある。が、私には大きな違和感がある。もちろん、宗教は人間を癒す。しかし、これまで述べてきたように、宗教は手段ではないからだ。いわゆる「癒し」を必要とするような人間そのものを問い、そしてそんな人間を生み出す、この世を問うことこそが宗教だからだ。

いわゆる「癒しブーム」は私には「野戦病院」のように思える。戦争で負傷した兵士を治療し前線へ送り返す仕掛けだ。現代はそこまでいってしまっているのだろうが、だからといって、それでいいはずがない。あくまで繁急避難としての癒しは必要だろうが、より本質的なことは、今の私たちの生活を「癒し」など必要としないものにすることである。

私自身を見つめることを通して「癒される」必要のない本来の私を見出し、世の中を深く見つめることを通して人間を、いのちを傷つける有り様を少なくしていくことこそが、本来の癒しなのではないか。

 

さいごに

人間は本来どこまで行っても割り切れないもの、「余り」のある存在である。人間には闇が、森が神話が要るのである。ところが現代日本は、それらを街や生活から追放してきた。小さくて暗くて怪しい坊主バーが「落ち着く」と言われることの訳がそこにある。さらに「自分を語る」ことと「落ち着き」の間柄も見逃せない。

同様に「落ち着く」建物、空間の代表は、お寺、神社、茶室などではないか、一般の家なら、床の間、仏間、仏壇だろうが、それもやはり伝統的な和風がいい。それらはすべて「遊び」の空間、即物的な意味のない空間である。それらをなくしてきた貧弱さを憶う。

この余裕のなさは、建築にも責任があるのではないか。効率という錦の御旗の下で思想的に貧弱なものをつくってきたのではないか。

最近、私は地元の平野郷で「町並みづくり」にかかわり、新しい町家の提案を技術者にしてもらっている。その中で今風の安い「都市型三階建て」の提案もしてもらい、小さい敷地でも中庭をつくるような設計も出てきている。このように一部屋減らして、便利さを少し減らしてでも遊びの空間をつくるような提案が、今後あらゆる場面で大切なのではないかと思われる。と同時に、キーワードは、あくまで暗く怪しい、闇、森、神話であって、人間の、いのちの癒しは決して計算ではできないことを忘れてはならないと思うのだ。

坊主バー TEL 06-6213-4345 19:00〜1:00(きよしふみひこ 瑞興寺住職)

 

VOWS BAR設立宣言 1992.12.10

私が私であることに なかなか頷けないけれど

事実 私は私だ

物事の道理に なかなか気付けないけれど

事実は 道理に従っている

この私が今 そのことに気付くことがなかったら

いつ 気付けるか分からない

私は今 全てのいのちと共にその事実に気付いた

自ら真実に生き 真実に生きようとする全てのいのちと共に

この道を求め この上なき願いを胸に秘め

世界の端々まで 注意深く物事の本質を見通し

あらゆる圧迫を 恐れず歩む

私は今 その真実に触れた

真実を私の核として 今 街に出よう

我々は今 大阪ミナミの地に

あらゆる人々が 水平に出逢う

VOWS BAR(誓いの場)を設立する

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION