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長崎県下の船競漕分布図(対馬・壱岐・出島を除く)

 

○ 現存するところ

× 現存しないところ

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最も大きい船で長さ28mもあったが、現在は13.5mに規制されている。乗組みは28人の漕ぎ手とアカ汲みや舵取りなど33人である」と記している。(現在は舟の長さ13m、乗員30人)

「長崎のペーロン」を受けて、周辺部にある五島なども和船に代わりペーロンがおこなわれるようになった。しかし、これは夏祭り行事の一環としておこなわれるもので、かつての祭礼行事としての繋がりはほとんどない。昭和30年代までは和船競漕がおこなわれていたが、櫓の操作が可能な人が少なくなり、さらに青年層の減少もあって操作の簡単な櫂が用いられるようになったものと思われる。

県北部の和船競漕は同地域の鯨組との関係が深い。つまり鯨漁の盛んであった地域では鯨を追う船足の早い勢子舟の維持・養成が必要であった。そのため祭礼時に船競漕をおこなった。この地域では和船競漕「セリフネ」とか「セイグロ」といった。

 

◎不知火海

小松原濤著『天草ペーロン志』に、詳しく天草および不知火海へのペーロン伝播のことが記されている。ペーロンはまず、長崎から苓北町富岡へ伝わったといい「富岡ペーロン」はいまも苓北じゃっと祭りとして、盛んに行われている。さらに本渡市や松島町、宇土半島の三角町などにペーロンが現存する。不知火海のもっとも南に「米の津ペーロン」があったとされる。現在の出水市にあたり、いまも細々とつづけられているが、ペーロンの名はない。

 

 

 

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