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対馬では各町が競漕舟を建造して夏祭りなどに船競漕が復活した。そして「全島舟ぐろ大会」も開催されたが、各町を一回りして終了した。しかし各町の舟競べはレクリエーションとして夏祭りの際におこなわれ続いている。

 

◎長崎県下

この地域は長崎周辺のペーロンと県北部の和船競漕に分けられる。長崎のペーロンといっても県北部ではあまりペーロンを見ることはない。

ペーロンは長崎市を中心にその周辺部西彼杵半島や野母半島、大村湾の一部でおこなわれる。その起源は長崎が開港されると中国から多くの舟がやって来るようになり、江戸時代の1655年(明暦元年)、長崎港に停泊中の唐船が暴風雨によって沈没、多数の使者を出したことから、海神の怒りを鎮めようと中国人たちが集まって船競漕したことが始まりとされる。以後、長崎の人達に引き継がれ、今日まで引き継がれてきた。

 

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ペーロンは今日では5月以降、8月中旬にかけておこなわれるところが多く、特に長崎市周辺では7月末におこなわれる「長崎国際ペーロン選手権大会」にむけて予選がおこなわれる。したがって各地区ともに舟の大きさ、櫂の型、乗員数とその役割(26人の漕ぎ手と太鼓、ドラ、舵取り、垢汲み各1人ずつの30人乗り)が選手権ルールに統一され、画一化された観がある。つまり、それぞれの地区で特色をもっていたペーロンが「より速い」ペーロンを目指すことによって形を変えていった。そして、どの地区でも画一化されたレースをみるようになった。強いて言えば、選手権大会出場のための予選会になってスポーツ化し、各地区に伝わる伝統行事の意味が徐々に薄らいできているように思う。

競技に拍車がかかり、スポーツの高度化がすすむと漕ぎ方一つとってもより合理的なフォームが要求され、伝統的な用具(例えば「長崎名勝図絵」に見るような水掻きが細長い櫂、上図)はなくなる。『民俗大辞典』(吉川弘文堂、1999)によれば、「はじめは船足の早い細形の鯨船やインコロ船を使っておこなわれていたが、のちに専用船が考案され、1940年ころから競漕を目的とした競技のため、現在の船型に定着したという。

 

 

 

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