日本財団 図書館


136-1.gif

 

つまり神事に用いられる舟である。これは神事に参加することが御利益があると漁師たちは進んで御神幸舟に選ばれることを好んだ。

対馬では、現在、各町が競漕舟を所有し、町の夏行事などで舟ぐろうをおこなっている。これに対して壱岐では勝本町勝本浦が毎年祭礼行事として古い伝統を守り、郷ノ浦町は競漕舟を建造することにより「春一番フェスタ」や地区の舟ぐろ行事が復活した。

対馬は四方を海に囲まれながらもかつては厳しい環境であったため、藩の政策もあって農業が主体であった。そのため、あらゆる地域の新田開発がおこなわれ、人々は居住する地域以外のところにそれを求めた。したがって舟で田畑へ出向くようになった。この時、使用した農業舟を地舟(ジブネ)とか長舟(ナガフネ)といって各戸が所有していた。6から8尋もあるような大きな舟であった。舟が大きいのは、この舟で肥料や牛馬や収穫物を運ぶためであった。この舟を使用して対馬各地で祭礼時に船競漕をしていた。対馬は古くは本当に盛んなところで「海つきの村」と称される海に面した村ではほとんど船競漕がおこなわれたといってよい。

 

136-2.gif

 

また対馬では雨乞いなどの願ほときにも船競漕がおこなわれたことは特色の一つである。しかも、これは単に一地区だけでなく、周辺地域が集まって合同で雨乞いをし、願が成就すると船競漕をしたことである。これは地区の競争のため、各地区は競って大きな舟を造った。なかには20丁櫓を使用するような舟もあった。この時の舟は各戸が所有する地舟と異なり、地区が所有する地舟よりも一回り大きな村舟であった。これは役舟ともいわれ、府中へ税を納める舟としても用いられた。ちなみに、現在の各町所有の舟も11丁櫓と大きな舟である。

一方、壱岐ではテント舟という5尋余の漁舟で櫓も4−5丁で対馬に比べると比較的小型であった。

乗員は、対馬では漕ぎ手に舳先で女装し、サイをふるアヤキリ(地区によってはゼイフリ)と木で拍子を取る手木たたきが乗る。また壱岐では漕ぎ手と舶先に4m余の竹竿をもった飛び手、それにときどき神官が片方の舟に乗る。飛び手はレース中に相手側の舟が近づけないように竹竿で間隔をとる。時には竹竿の魔術で相手の舟を竿で押して、その力で前方へ出たりと巧みに竹竿を使う。そしてレース後半になると竹竿を捨て、浜に乗り上げると飛び降りて全力疾走し、丘の上の神官がもつ御幣を取って先に取ったほうが勝ちになった。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION