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この他、歴史的にも早くから地の利を生かしてこの地と大陸の往来を繰り返した。

一般にこの地域では船競漕のことを「オシクラゴウ」と呼んでいる。オシは押す、クラゴウは競べるの意の方言である。角島ではオシゴクラともいっている。

この地域は大きな船による競漕は聞いていない。小型の速船で乗員は5から7人位で、地区によっては新造の漁船を用いておこなっていた。そして競漕船には毛利水軍のマークが記されている。さらにこの地区では乗員のなかで舳先に「踊り子」「ヘイフリ」「ヤッコ」と称する長襦袢をきた女装者が乗ることも特色であろう。これは対馬でも見られる。

今日でも、この地域を代表する船競漕と思われる萩・玉江浦は毛利水軍の名にふさわしく、風雨に関係なく大海に向かって8kmという距離でおこなわれていたが、やがて4kmになり、平成期になってからは長く続いてきた海から川に場所を移し、しかも距離も1.5km余になった。舟が動力船にかわり櫓を使用しなくなったことと、櫓技術が特殊技術であるため操作が困難なこと、若い漁業従事者の減少などあって漕ぎ手の確保が難しくなってきている。また、こうした状況が漕ぎ手の輩出母体である青年宿の崩壊にも拍車をかけ、伝統的社会のルールそのものも崩れようとしている。その結果、船競漕を通して継続してきた対抗意識はほとんど消滅してしまった。かつては各青年宿ごとに先輩が作戦を授けたり、士気を鼓舞していたが、現在は漕ぎ手は合部屋になり緊張感もほとんどなくなって単なる儀礼になってしまった。こうなれば消滅も時間の問題である。さもなくば地区の夏祭のレクリエーションになってしまうだろう。

以上のような経過をたどり、かつて盛んであった船競漕がほとんど消滅してしまった。

しかし、地域によっては櫓を漕ぎやすい櫂に代えて儀礼的に船競漕を継続しているところもある。

 

◎壱岐・対馬

この地域も古くから船競漕の盛んな地域であった。周知のように、この地域は古代から大陸との交通ルートの要衝であった。

今日では、壱岐・対馬は長崎県の離島として一般に並び称されているが、地理的にも歴史的にも異なる島で共通点はさほどみられない。壱岐は平戸藩、対馬は対馬藩に属していた。

これらの地域では、現在は船競漕を「舟ぐろう」と呼んでいるが、かつては対馬では「舟ぐろう、舟ごろう」と呼んでいたのに対して、壱岐は「御幸舟」(ミーキブネ)と呼んでいた。対馬では「かけっこ」を「走りぐろう」といったように、「ぐろう」は競争の方言である。一方、御幸舟は祭礼時に御神幸に用いられる舟をそのまま競漕舟に使用したため、この名がある。

 

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