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すなわち本浦と正村地区の対抗である。したがって御幸舟も東西地区から各一隻ずつくじをとり選んでいたが、昭和32年以降は東西対抗もなくなり、地区の当番制に変わったため、その年の当番町から2隻を選ぶようになった。そして選ばれる舟もほとんどがその年に造られた新舟か3年以内に造られた比較的新しい舟であった。昭和50年頃までは過去3年間に家族に不幸がない人などの厳しい条件があった。

昭和30年頃までは「御しめおろし」される10月7日を期して船競漕の練習を始めていたが、その後、櫓が漕げない人が多くなり、練習期間は長くなった。

戦前では、選手は一週間、すなわち10月7日から13日まで祭りに出艇する舟主の家に泊まり込み練習に励んだ。舟主の出費は並大抵ではなかった。

選手はその地区の長老が選んだ。そして櫓も良い櫓を探し求めて集めた。選手に選ばれることは大変名誉なことであった。選手たちは深夜、禊ぎをして神社に必勝祈願することもあった。祭の直前になると選手の練習にも熱がこもってくる。練習の様子を古老たちが岸壁からジッと見守っている。古老たちの若いころには先輩たちから櫓の押し方について厳しい指導があったという。しかし今日ではほとんどそういった光景はみられない。

競漕舟の乗員は漕ぎ手4人と舳先で櫓拍子をとったり、「身竿」をもってレース中お互いの舟が接近しすぎないように一定の距離を保ち、さらには岸壁が造られるまでは、競漕舟が浜に乗り上げるやいなや飛び降りて宮司のもつ御幣を取りにいったという「飛び手」と称する多様な役割をこなす乗員一人の計5人である。飛び手は身竿を巧みに使いこなし、お互いの舟の間隔を一定に保つだけでなく、相手の舟が接近すると相手の力を利用して自分の舟を前進させたりした。そのやり方は実に巧妙であった。

14日正午選手たちは、正装してかつてはそれぞれの地区の公民館に集まり、昼食をとりながら先輩たちのアドバイスをうける。

同日午後2時すぎ、紅白それぞれの鉢巻きをし上半身裸で褌をしめた選手が御仮殿に集まってくる。神事のあと、選手の安全祈願が行われ、「一の舟」「二の舟」のくじ引きが行われる。一の舟には神官が乗る。かつて、二の舟には神官相当の石を乗せたこともあるという。古くは一の舟が勝つと豊作、二の舟が勝つと大漁という在部と浦部の対抗競技であった。

神事が終わると直ちに宮司を先頭に競漕舟の停泊する岸壁へ向かう。二組の選手は紅白の競漕舟に分乗する。対岸の出発点に向かって、右が一の舟、左が二の舟である。選手は乗船して正座し、舳先に向かって拝礼する。そして宮司が後ろから御祓いをした後、櫓ぐいに海水を掛け、力米と塩を食む。そして準備万端整い出発点である対岸に向かう。舟の舳先には宮地獄でいただいた鉾が取り付けてあった。(しかし、現在は聖母神杜の御札)距離は250m余。

 

 

 

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