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渡御の諸手船は三重県側の鵜殿村から参加することになっている。鵜殿村は熊野川の河口の東側に位置し、その昔は水軍の根拠地であった。諸手船は烏止野神杜の氏子総代のなかからハッピ姿の舟夫10人と赤衣に黒シュス帯、赤頭巾、手甲をした女装者が櫂をもって乗船する。諸手船は全長11.7m、幅2mの櫓船で、右舷に4丁、左舷に5丁の櫓をたてた鯨船に似せた流線形の木造船である。

午後2時から神輿渡御式が本杜で行われ、2時半には神幸船のまつ熊野大橋下流横の川原に向けて行列が出発する。神輿が川原に到着すると覆面をした神職らによって神霊が神幸船に移される。これによって御舟島への御神幸の準備は整ったことになる。そしてこれを合図に速舟のレースがスタートする。前述したように本来的には速舟が諸手船、斎主船、神幸船を扇形になって曳航したという。そして流れがゆるやかになる牛鼻島付近から一斉に綱が放され、速舟は御舟島へ向かって一直線に進み、御舟島を3周して対岸の川原まで千m余の距離で競漕がくりひろげられた。が現在では競漕は大橋付近から御舟島までおよそ二千mの距離で行われる。

大橋付近のスタート地点では競漕舟が9隻、川下から川上に向かって順に1番から9番まで並ぶ。スタートはさらに舟から陸上30mのところにある。トモノリが札番のついた紐をもって用意の準備をする。川下が不利なため、若い番号札は紐が少し長い。しかし不利であることには変わりない。この札番を落とすと順位に数えられない。バトン代わりである。スタートの直前、各舟は漕ぎ手の一人がトモノリが飛び乗ると舟を押し出すために艫で待つ。トモノリは全力疾走して舟に飛び乗る。この光景は壮観である。

舟は漕ぎ手とオモテ(舳先に近いところに乗る)、舳先に乗る神主(神主といっても神職出はない、漕ぎ手の士気を鼓舞するためにヒシャクで水をかけたり、他の舟の接近を防ぐ)、それにトモノリ(舵とりで経験者がなる)が乗る。

そして上りのレースが終了すると、斎主船に曳かれた諸手船、神幸船が上ってくる。さらに御舟島を時計回りに3周する。その時諸手船では舳先で女装者が「ハリハリセー…」という漕者のかけ声に合わせて櫂を片手に漕ぐような踊るしぐさをする。この踊りをハリハリ踊りと呼んでいる。斎主船が川原に着くと、上りのレースで優勝したチームが優勝旗をかかげて御舟島を1周する。

レース前から御舟島の頂に一人の神職とその両脇に巫女が立つ。優勝チームの周回が終わると神職は扇を頭上にかかげ、3回まねくと下りのレースがスタートする。下りの出発点は川上から1、2、3…9番と逆に並ぶ。そして、まっすぐ御舟島に向かい1周して川を下る。ゴールは熊野大橋上流横である。

各舟の選手は各地区から選ばれていたが、選手の確保が困難になり、今日では他地区からも確保するようになった。したがって、かつてのような対抗意識はみられなくなり、喧嘩が絶えず、厳重な取り締まりをしていた当時がなつかしい。さらにレースのために夜な夜な厳しい練習を1か月にわたって行ってきたが、それも徐々に短縮されるようになってきた。

江戸期には1位は藩主より積荷舟の一番出港の許可を貰ったというから、古くから勝敗にこだわった理由がうなずける。つまり江戸期は当地の人々の生活がかかっていたことがわかる。

当地では船の管理はすべて神社がおこない、他地方でみられるような地区が船の管理はしない。したがって、地区が競って新造することもない。

 

 

 

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