通船堀に沿って進むと芝川に突き当たり、そこに架かる八丁橋を渡って見沼通船堀東縁を進むと見沼代用水東縁に出る。芝川に架かる八丁橋のたもとに小さな祠があるが、これが水神社である。前にその由来を書いた掲示板が立てられている。
八丁橋を挟んで水神社と反対側の東浦和駅方向の県道沿いに、運河の通船権を幕府から与えられた鈴木家の住宅がある。子孫の人が居住しているが、日を限って建物を公開している。国の史跡にも指定されている。
一時期の見沼通船堀はすっかり荒れ果てていた時もあったようであるが、現在は、東西とも整備されており、閘門の一の関、二の関も復元されている。休日には、結構見学者も多く、運河沿いは良い散歩コースになっている。
・北袋河岸場跡
見沼代用水西縁沿いに北に進み、住宅街を抜けて行くと、北袋河岸場跡を示す掲示板が立っている。水路の護岸はコンクリートになり、金網に囲まれて、とても昔荷物の揚げ下ろしが行われた場所と想像することはできず、掲示板が河岸場跡を示す唯一の証拠である。
・浦和市立郷土博物館
明治時代の洋風建築で、旧埼玉師範学校の校舎であった鳳翔閣の胴部外観を復元した建物を使っている。館内では、見沼通船堀、通船堀閘門、見沼通船に用いた荷船の模型等の他、浦和市内からの出土品、歴史資料、古美術、民俗資料などが展示されている。
3. 房総の船
房総は、近隣にあって江戸の台所に必要な物資の補給地として重要な役割を担っていた。この地からは、塩、魚、米、野菜等の生鮮食料品をはじめとして多くの物資が船で運ばれた。また、房総は江戸での奉公人の供給地でもあり、このため人の往来も頻繁であった。
(1) 行徳船
徳川家康は、江戸に入府するとすぐ、小名木川を開発し、中川と江戸川を結ぶ新川を掘った。これは生活必需品の塩を確保するためであったと言われている。
行徳の地は、戦国時代から小田原の後北条氏に年貢として、すでに塩を納めていたと言われており、江戸幕府成立後は、その直轄地として、塩浜付きの村が26ケ村もあり、江戸の塩の供給地として重要な役割を担っていた。
しかし、海上交通の発達にともない瀬戸内海の塩が入るようになると、この地の塩の割合は減少していった。しかし、塩の輸送が少なくなってもそれに代って、下総行徳河岸は人や他の物資の輸送に使われるようになっていった。江戸時代の文人でもこの船に乗って紀行記等を残している人も多い。
松尾芭蕉も深川の芭蕉庵から舟に乗り、小名木川を通って江戸川に出て、行徳河岸に着き、ここから徒歩で八幡、鎌ケ谷、布佐を経て利根川を下り、香取、鹿島に旅行している。その状況は、その紀行記『鹿島紀行』に述べられているが、この行徳についても、「門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。」と書かれている。
このように、江戸と行徳の間は、江戸時代には舟運でしっかりと結ばれていた。
(2) 内房の河岸からの舟(木更津船)
九十九里浜で水揚げされるイワシは、食用にされる他、干鰯、〆粕に加工され高級肥料として全国に輪送された。房総半島の内陸部は陸上輸送され、内房の海岸に着いた後、千葉の登戸河岸や曽我野河岸から東京湾を横切って海上輸送された。
この内房と江戸を結ぶ輸送の動脈として、木更津船と呼ばれる船があった。木更津は古くから湊町として栄え、中世にはすでに鎌倉への海路が開かれていたという。江戸時代に入っても内房の主要な湊として、江戸との間の物資輸送が盛んに行われた。これは幕府が、慶長19年(1614)の大阪冬の陣において活躍した木更津の水夫に論功行賞として、江戸と木更津の間の航路に特権を与えたことに始まると言われている。すなわち君津郡誌によれば、木更津は、大阪の役の際に徳川氏の命を奉じ水主24人を出し、その水軍に従事し、おおいに勤めたが、その任務尋常でなく関東に帰れたのは12人であったという。