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このため徳川幕府は、残った水夫等と戦死した水夫の遺族を、木更津付近の幕府領の年貢米輸送に従事させるとともに、江戸府内の日本橋と江戸橋の間に河岸場を設け、安房、上総二国へ渡船営業する特権を与えた。

この航路に使われていたのが五大力船である(図3参照)。したがって、この船は別名「木更津船」とも呼ばれ、棹を使って海から直接隅田川に入ったので、たいへん重宝がられた船で、広重が「上総木更津」に描いているのも、この船である。

当時は、安房、上総方面から江戸又は神奈川方面へ陸路を荷物を運ぶよりも、海路の方がはるかに早く、かつ、大量に運べたことから、この木更津船の往来は頻繁であり、房総の中央部で集められた物資のほとんどが、この舟で江戸に積出されていた。

しかし、このような特権も時代の変遷とともに、元禄時代(1688-1703)になると、河岸を設けていた船町の地元住民と権益をめぐって争いを生じるようになる。そして、その権益範囲も次第に縮小していくのである。

また、この五大力船は、安房、上総以外の武蔵、相模、伊豆等の関東各地からも、海上から江戸へ米、薪炭等の大量輸送を行う小廻し海運の舟としても使用されていた。

五大力船の荷物の積石数は、100から500石であったといわれており、その寸法は標準的な船型である150石積程度のもので全長16メートル位、幅3メートル位であったといわれている。九十九里町立いわし博物館で模型をみることができる。

 

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図3 五大力船(「船鑑」より)

 

『船鑑』には、同じ船型名で二つの図が掲げられ、次のように述べられている。

「五大力船:

所ニヨリ鰯魚舟、小耀舟トモ云フ

武蔵、伊豆、相模、安房、上総、辺海付ニ有之

上口凡長三丈二尺ヨリ六丈四五尺位(9m30cm-19m50cm)

横八九尺ヨリー丈六七尺位(2m40cm-5m10cm)

五大力船:

櫓附、所ニヨリ小廻トモ云武蔵、伊豆、相模、安房、上総、辺海付ニ有之

上口凡長横同前」

五大力船には、鰯魚舟又は小耀舟(こようぶね:垣立の小さい舟の意)と呼ばれていた舟と、小廻と呼ばれていた舟があったようであるが、両者の最大の違いは船頭の居住場所の有無であり、使用場所も寸法も変わらないことから、用途に応じて多少の差があった程度であろう。いずれにしても、この船は、干鰯の運搬に使われたり、近隣地域の小廻しの廻船として便利に使われていたことが分かる。

この船の構造的な特徴は、海船と川船の折衷型ということである。もともとは、海船であるからその構造的特徴を有しているが、弁才船のような垣立がなく簡単な「しとみ板」を垣にしており、ほとんどの船は乗組員の居住する後半部の矢倉も設けられていなかった。

この船は海を走ってきた後、竿をつかって川を遡るという運行をすることから船体は、弁才船などに比べるとずっと細長く、喫水も浅いという特徴をもち、竿が使えるように舷側に「竿走り」と呼ばれた板張りの台が設けられていた。

このような船型が考えられたのは、大型の廻船が海港に着くと現代でいう「はしけ」の役目をする小型の瀬取船に積み替えて江戸町中の水路を運ばれたのに対し、江戸湾を航行してきた舟が、そのまま河川の中でも運行できるようにするためである。その結果、積み替えの手間が省けて重宝がられたものの、海船にもかかわらず、行政的には江戸に入る川船としても年貢・役銀を課せられていた。

 

 

 

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