この通船業務について、『御府内備考』には、「この水路の十七里の間を通船することを命じられた茂右衛門・文平両人は、自分の持ち船を通船するとともに、他の船や筏からは所々に設けられた会所で定められた運上金を取った。両人はこの中から年々冥加金を幕府に納め、苗字・肩衣を許された。また、筋違橋外の空き地に一か所、武州足立郡辻村に一か所、同郡大間木新田に二か所の地所を拝借した。この他足立郡川口宿悪水入り口、上瓦葺村、北袋村、埼玉郡上平野村の都合四か所に会所開くことを命じられた。この筋違橋外の地は見沼通船屋敷といい、表の間口は三十間(約54m)、奥行き二十間(約36m)で、神田川の中には幅九尺(約2.7m)、長さ三十間の繋船場所を拝借した。」と書かれている。
通船堀の近く八丁橋を挟んで水神社の反対側に、今でも鈴木家の建物が残されているが、鈴木家は各船に対する積み荷や船頭の割振りを行っていたが、文政年間(1818-1829)以降は、八丁に住居も移し、ここで業務を行っていたといわれている。現在残ってる建物はこの頃に建立されたもので、見沼通船の船割り業務を行っていた役所として歴史的に貴重なものである(昭和57年に国指定史跡)。
なお、高田家が江戸に与えられ通船屋敷は、秋葉原の交通博物館に近い万世橋の北詰東側一帯の河岸(外神田1-16)であった。この高田家は、代々学者が輩出し、国学者の高田与清(養子になる前は小山田姓)が集めた蔵書は五万冊に達したといわれており、その一部が水戸の彰考館に納められている。
通船が行われたのは、稲刈りから田植えまでの田に水を使わない時期に限られ、初めは秋の彼岸から春の彼岸まで認められたが、後には冬場の2ヶ月程のみに制限された。明治時代にもまだ通船が行われており、明治十七年には通船会社も設立されたが、陸上交通の発達に伴って大正時代の終わり頃にはだんだんと衰退し、昭和初期には終焉を迎えた。
舟の積み荷と船頭の生活については、浦和市教育委員会編著「浦和市文化財保護』第2集(昭和33年、1958)に倉林正次氏が以下のように記述している。
「沿岸から運ぶ下りの船荷は、米、麦、甘藷、野菜、薪、瓦などであり、江戸からの上り船には肥料、酒、醤油、砂糖、塩、魚などを積んだ。これを運ぶ舟の大きさは、米俵を百俵から二百俵くらい積める程度のもので、大型・中型・小型の三種があった。船は寝泊まりできるようになっており、その構造が舳先にもたれていた。一番先端部が布団など入れる押入れ、その次に畳一帖を敷いて休む所とし、その手前にカマダシ(釜壇)と呼ぶところがあり、茶だんすや、米びつなどを置き、煮炊きもした。」
また、輸送の日程については同じ資料に、「代用水沿岸の荷物を集めて、通船堀まで下がるのが一日仕事。その晩は一泊し、翌日一日がかりで江戸へ下った。至急便の早船のときは、ヌキサガリと称し、家に泊まらず、通船堀を通って、その夜をかけて下る方法もあった。上りには多少よけいの時間を要した。千住を夜中の十二時ころ出発し、川口で日が登り、通船堀まで一日がかり。天候のあれ時には一週間はおろか一箇月も帰れぬことがあったという。」と書かれている。
(3) 現在の見沼通船堀
・見沼たんぼと見沼代用水路
見沼たんぼは、埼玉県により全域にわたって開発規制が行われてきたことから、激しい宅地開発の中でも、昔ながらの風景がよく残っている。周辺には公園も整備されており、首都圏でこれだけの自然がまとまって残っている所は、そう多くはない。
見沼代用水東縁沿いに「緑のヘルシーロード」を進んでいくと、代用水が大きく右に迂回するあたりが見沼代用水の原形保全区間になっている。長さ約500m位の間は、護岸工事が施されていない昔のままの見沼代用水が残されている。
・見沼通船堀
武蔵野線の東浦和駅から2〜3分のところに見沼通船堀公園があり、この公園の裏側に見沼通船堀西縁がある。