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運行は、新河岸川(内川)を運行する間は棹を使い、荒川(外川)に入ると櫓を使っていた。また、上りの時(川越へ向かうとき)は、風の状況を見ながら帆も使った。この帆は、12〜13メートルの帆柱を立て、滑車(セミ)を使って、幅三メートル位のものを何枚か合せた帆を上げるものであった。図2は、第8回特別展「新河岸川(舟運)の福岡・古市河岸」資料(平成2年、上福岡市立歴史民俗資料館)に所載の「新河岸川の荷船」の図である。新河岸川と荒川が合流する「河の口」辺りは、川の流れが速かったので川越方向へ遡る時には、舟に綱をつけ川岸からの曳船が行われた。

 

(6) 輸送荷物

上述の通り初めの頃は、主として年貢米を輸送していたが、商品経済の発達にともなって、だんだんと一般の荷物も扱うようになり、その取扱い範囲は、埼玉県西部地域は言うに及ばず、信州、甲州にまで広がっていった。

この川を通じて運ばれた荷物の代表的なものを列挙すると次の通りである。

1] 上り荷物(江戸から川越へ)

砂糖、塩、酒酢、荒物、瀬戸物、小間物、鉄類等の日常必需品と衣料品、農家で使う干鰯等の肥料類が主流。干鰯やぬか・灰などの肥料は荒れ地を開墾するための必需品で元禄、享保の頃までは大量に運ばれた。

2] 下り荷物(川越から江戸へ)

米、麦をはじめいも、そうめん、醤油等の農産物、木材、石、石灰、杉皮や戸障子等の建築用材、炭等地元及び近隣からの産品。

 

3. 利根川の最上流の河岸倉賀野

(1) 倉賀野宿

現在は群馬県高崎市の一部になっている倉賀野は、昔の上州七宿の一つであった倉賀野宿のあったところである。江戸と京都を結ぶ大動脈であった中山道は、江戸から上州に入ると新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の七宿を経て、信州に入る。

同時に、この倉賀野宿は、中山道と日光例幣使街道との分岐点となる宿場町で、江戸と上信越の国々との間の荷物運送の中継地として栄えていた町である。この日光例幣使街道とは、毎年日光東照宮の4月18日(徳川家康の命日)の大祭に、朝廷から派遣される奉弊の勅使の通る街道のことで、京都から中山道を東下し、倉賀野宿で分かれて、日光に向かったことから、この道路を例幣使街道と呼んでいたのである。

また、この倉賀野は、利根川、烏川、鏑川に囲まれ水の便利のよいところで、宿の南には倉賀野河岸があり、ここからは江戸まで下り舟があった所で、利根川水系の最上流の河岸のあった所である。ここでは、利根川を利用して荷物を運んできた舟から荷を降ろし、牛や馬の背に積み替えて上信越の各地に輸送する中継地の街でもあった。(図3参照)

 

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図3 倉賀野河岸周辺地図

 

(2) 倉賀野河岸

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