戦国末期には、既に利根川水系で武蔵国八甫まで川舟が活動していたとも云われるが、それがもっと上流域に及んだのは、江戸幕府が成立し、江戸城の築城のための石材輸送を大名に命じ、上野国中瀬から船で搬送した時に始まると云われている。
元和年間(1615-1624)になると、前橋藩が年貢米や薪・畳表などを船で運ぶようになり、江戸の人口増大と消費拡大に伴って、利根川はあらゆる物資輸送の大動脈として重要な役割を果たすようになっていった。
また、海のない信州では、昔から塩の入手には苦労がつきまとった。その主な搬入路は、日本海方面から陸送するルートもあったが、太平洋方面からは川舟を使って、利根川上流の倉賀野と富士川上流の鰍沢まで輸送し、ここで荷揚げして牛馬を使って陸送された。
元禄期(1688-1703)には、倉賀野河岸は、すでに大名の廻米のみならず、商人荷物も含めて船積みや陸揚げをする河岸としての役割を果たしている。その後、明治17年に鉄道が開通するまで、信濃越後で取れた米は碓氷峠を牛馬で越え、倉賀野から烏川を舟で下り、利根川、江戸川を経て江戸へ運ばれた。
しかし、このように倉賀野河岸が発達した背景は、やはり上信越地方に所領を持つ大名や旗本の江戸への廻米が増加したことが最大の理由である。『群馬県史』資料編10に所収されている元禄3年(1690)のものと推定されている「御大名様御城米之御宿覚」を見ると、上信地方の大名と旗本22家が倉賀野に荷物宿を指定し、廻米の保管、船積み、廻漕を依頼している。さらに、同じ資料の享保9年(1724)の「武家御米宿覚」では、39家に増加しており、ますます活況を呈してきている。このような大名旗本等の廻米の輸送に加えて、商人の荷物が増えて、河岸は益々活況を加えていった。
しかし河岸の活況に伴って、利根川上流部には、古くからの河岸に加えて、三友、三王堂、高島等の新しい河岸も増え、その数は年を追って増加していった。このため古くからの河岸の中には衰退するものも出てき、新旧の河岸の間では争いが絶えなかった。その結果上利根川筋では、安永4年(1775)に14の河岸の54人の河岸問屋が仲間を結成して、12ケ条の規定書を定め、運上金を納めて、無株の問屋の締出しを図っている。これが「上利根筋14河岸問屋仲間」といわれるものである。
(3) 倉賀野河岸の荷物と使用船舶
水上輸送の盛んだった江戸時代、倉賀野河岸からは、年貢米や高崎で生産される繭や生糸が江戸に運ばれ、江戸からは海産物や日用品等が運ばれていたため、毎日船の出入りがあったと云われており、ここから越後や信州へ背に荷物を乗せて運ぶ牛馬の出入りもあって、河岸は戦のような忙しさだったという云う。
『群馬県史』資料編10に所収されている明和8年(1771)の「倉賀野河岸概況口書」によると、この頃の荷物は次の通りである。
上り荷(倉賀野へ)…塩、茶、小間物、糠、干鰯、綿、太物類…約22,000駄
下り荷(江戸へ)…米、大豆、麻、紙、多葉粉、板貫の類…約30,000駄
(注) 1駄とは、牛馬1頭の輸送荷物米なら2俵
さらに、少し下流の平塚河岸では、足尾銅山が近かったことから、かなりの船が廻銅に従事したほか、この近隣で産出する薪炭、木材等、あるいは菜種、硝右等の徳産物も積出されている。
また、『群馬県史』資料編10に所収されている元禄4年(1691)の「倉賀野町荷物馬次船立につき玉村宿と出入訴状」及び天明6年(1786)の「倉賀野河岸舟数書上帳」によると、倉賀野河岸に在籍していた船の数については、次の通りである。この頃は、新しい河岸もできて河岸間で争いもあったようで、船の数が大きく変動している。
元禄4年(1691)…70余隻(先年は大小150艘)
天明6年(1786)…54隻