しかし、その後武士が力を得てくると、諸国の守護地頭が勝手に船賃を定めこれを徴収するようなことも起こり始め、各時代の支配者はその取締りに苦労するようになった。特に、室町から戦国時代と世が乱れてくると、その傾向は一層ひどくなっていった。
しかし、徳川幕府の開府とともに参勤交替の制度も設けられ、諸国往来の統一的な制度が必要となってきたことから、渡し場の整備も進められた。主要な渡し場には関所を設け、高札を立てて渡し場の決まりを掲示し、渡し銭も一定の額が定められ、渡し守はこれ以上の賃金を取ることが禁止された。その代わり渡し守には扶持米が給付され、その経営の安定を図るとともに、万一渡し船が転覆して溺死者等がでた場合は、遠島や死罪に処することとして、安全の確保にも力が入れられた。
4. 渡し場の決まり
(1) 徳川初期の渡しの法
徳川の天下統一の進展にともなって、交通網整備の一環として、渡しの制度も整備されて行くが、まず定められたのが船賃の制度である。次のものは、『徳川禁令考』に収録されている慶長17年(1612)5月に定められた規則である。
「割印なき船」には、商売用の荷物は積まないようにされており、渡し船が許可制になっていることがわかる。また、料金は馬も人もともに同じ十文であるが、寺社への徒歩の参詣者の場合は、半額の五文というのも、現代感覚から見るとおもしろい。
「荷物船賃の定」
1] 割印なき船に商売之荷物積べからざる事、
2] 渡船之事商人荷一駄四十貫目付京銭十文可取之、乗懸も馬人共に十文也
附富士路肴之船賃可為右同前、但参詣之分ハ五文可取事之
3] 船賃相定上ハ往還ハ無悲様舟越可渡事右條々於相背族ハ可為曲事者也
慶長十七年五月二十七日
同じような規則は、江戸時代に書かれた『府内備考』という書物にも、御厩河岸の渡しに関して、次の様な定め書きが載せられている。ここでは、武士の旅行は公用と言うことで、無料扱いになっているのと、渡しの円滑な運用の要求が目をひく。
『定』
1. この所の渡船、一人に付き鳥目二文、馬一匹二文ずつ渡銭を取って渡すべし。但し、武士の面めんは、人馬共に一切船ちんとるべからず。たとえ、武士の召仕いたりと言えども、主人の供をせず、刀をもささざる輩は、その屋敷より手形なくては船ちん二文づつ取るべきこと。
2. 火事、出水総て何事によらず、人を多く渡さなければならない時は、早速に増船を出し、往還が渋滞しないようにすること。
3. 番人船頭とも、往還の人に対して上下によらず、無礼悪口等のことをしないこと。
右の趣堅く相守るべきものなり。
延享四年卯六月 奉行
大阪城の落城後は、豊臣の残党の取り締まりと江戸からの出女の取り締まりが厳しかったようである。『徳川禁令考』に収録された元和2年(1616)8月の定め書には、利根川筋の渡し場に特別規則を制定して、主要な場所には関所を置き役人を配置して取り締まりに当たらせている。次がその定め書きであるが、幕府が定めた16の渡し場(関東十六渡津)以外では、川を渡してはならないことが厳密に定められている。地元に住んで毎日仕事に通う人と地元の代官などの許可をもらった人達には、例外も認められているが、如何なる場合も、女性と傷を負っている人は例外を認めてはならないことになっている。女性と傷を負っている人は、江戸へ連絡の上、酒井備後守の特別な手形がない限り通してはならず、又、例え手形があっても、定められた渡し以外は通れないこととなっている。大阪方の残党と出女にたいする取り締まりの厳しさをうかがうことができる。なお、この酒井備後守とは、幕府の初代の大御留守居役として、女手形と関所を担当していた酒井備後守忠利のことである。