(3) 渡し舟の船型
宝暦11年(1761)に、大阪堂島の船大工であった金沢兼光によって書かれた『和漢船用集』では、次の通り述べられている。
「渡船:この船の構造は、多くは平田作りが用いられている。また、ともえ、戸立造りもある。山河では高瀬舟が使われる。流れ川又は村野の小流にあるものと、山川の水の静かなものと、速いものと、渡しの形は同じではない。また、綱渡しもあるし、舟橋もある。二艘を用いている場合、一艘がこちらにある場合は、もう一艘は向こう岸において、互いに渡して往来がとどこうりなく行なえるようにしたものである。」
また、『船鑑』には、「渡船」として、図4の絵を載せ、次のように説明している。
「江戸並ニ近在ニ有之
上口凡長二丈四五尺(7m20〜50cm)
横六尺位ヨリ七八尺迄(1m80cm〜2m40cm)」
3. 渡し舟の歴史
渡しの事が最初に文献に出てくるのは『古事記』である。神武天皇が東征した時に、その船が摂津国を経て、河内の白肩津に停泊した(「経浪速之渡而 泊青雲之白肩津」)ことが述べられている。また、『播磨風土記』にも、景行天皇が同国高瀬に行幸した際に、渡子に渡し賃を与えたことが述べられている。大化の改新の時(646)の記述には、「罷市司・要路津済渡子之調賦、給輿田地」とあり、それまで渡し場を設けて、渡し守を置くために調賦(税)を納めさせていたが、この時になって官から田地を与えてその費用に充当することとし、調賦を科すことを止めたとしている。
さらに、大宝律令が制定されるに至り(701)、諸国への街道等に関する行政が民部省の管轄となり、国郡官司等がそれぞれの場所を管理したが、「凡水駅不配馬處、量閑繁、駅別置船四隻以下二隻以上、随船配丁、駅長准陸路置」と要路であるにもかかわらず、歩いて渡れない河等には、船を置いて渡し守を配置している。
天長(823-834)の頃になると、諸国の渡し船は20年以上を経たものは買い替えすべきことなど、渡し制度の充実徹底を図っており、承和(834-848)の頃には、東海道及び東山道の諸川で浮橋の架けられないような広い所には、渡し船を配置し、河畔には布施屋を置いて休憩をしたり、宿泊をしたりすることができるようにしている。