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定船場之事

白井渡(上野、利根川筋)・厩橋(同上)・五料(同上)・一本木(武蔵、利根川筋)・葛和田(同上)・河俣(上野、利根川筋)・古河(下総、渡良瀬川筋)・房川渡(武蔵、利根川筋)・栗橋(同上)・七里ケ渡(下総、利根川筋)・関宿之内大船渡境(同上、境町のこと)・根府川(常陸、利根川筋、布川のこと)・神崎(下総、利根川筋)・小見川(同上)・松戸(下総、江戸川筋)・市川(同上)。

1] 定船場之外わきわきにて、みだりに往還之者渡すべからざる事

2] 女人手負其外不審成るもの、何れ之船場にても留置、早々至江戸可申上、但酒井備後守手形於有之は、無異儀可通事

3] 隣郷里かよひのものは、前々之船渡をも可渡、其他女人・手負の外不苦者は、其所之給人又は代官の手判を以可相渡事

4] 酒井備後守手形雌有之、本船場之外は、女人手負又は不審成者は一切不可通事

5] 總而江戸へ相越者、あらたむべからざる事

右條々於相背族は可被處巌科者也

元和二年八月

その後、徳川幕府の安定にともなって大名の参勤交替も始まり、これにともなって交通の制度も詳しく定められることとなる。特に寛永12年(1635)6月家光の時代になって、武家諸法度が定められるに至り、大名の参勤交替の制度も法的に確立していくこととなる。中でも交通の要衝の地である東海道の富士川の渡しについては、寛永5年(1628)に次のような「富士川渡船賃取立の高札」が立てられている。

「富士川渡船之儀、奉公人の外者定之通り賃銭取立候筈に古来より極置候處、近年は町人・諸職人・商人共荷物にも、賃銭不相払通候者も有之由相聞候、向後諸職人並商人共荷物は申に及ばず、武士荷物たりといふとも、商人受負にて相通候分は、定の如く賃銭取立、往還船渡可致者也。

嘉永五年十一月 奉行」

ここに書かれているように、原則として奉公人である武士は無料で渡しを利用することができたが、その荷物を商人に請け負わせて輸送する場合は、渡し賃を支払わなければならないとされている点が興味を引く。

一方、渡しの業務に従事する人達の生活を安定させ、法外な料金を取ることのないようにするための措置も取られている。例えば、寛文6年(1666)に馬入川の渡子16人に俸米十口を給し、さらに馬入村の米高から二十石分をその渡津料に当てたり、また、富士川の渡子60人に封米二十石を給するなどの措置をとって助成している。

このようにした上で、渡子が法外な料金を取ることのないように、その料金規定を各渡し場の川会所に高札をもって表示させることとされた。

徳川幕府の「新式目」においては、川舟渡しについて、次のように規定している。

「川舟渡守之事、毎年役目相定者、公儀之使者・飛脚・伝馬之外者、雖為武士、渡賃可取之、或従公儀急用之時、緩に仕候か、或は以見懸渡賃多取候者、曲事可申付、總而斗藪(注:托鉢僧)・行脚・乞食體之者には、従往古不及渡賃間、其心得肝要也、亦洪水之節、不叶用所有之而、道急用之衆者、対馬守相當之心持尤之事」

 

(2) 渡船弓高札

前述のように渡し場の規則は、それぞれの渡し場の渡し口に高札を立てて周知されたが、例えば、寛文6年(1666)6月には、渡し場の秩序を定めたものとして、次のような高札が立てられてことが『徳川十五代史』に載せられている。その文には、次のように、前々から決められているように規定の数の渡し船を怠りなく出し、昼夜の区別なく渋滞することのないようにしなければならない。往来の人が多い時には、舟を残らず出し、人も、馬も、荷物も滞ることのないように渡すこと。

また、みだりに定められた料金以外に多くの料金を取ってはならないことや、荷物を付けたままで、馬を舟に乗せてはならないことも定められている。

 

 

 

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