日本財団 図書館


033-1.jpg

写真2 山の宿の渡し跡

 

8] 竹町の渡し(別名:花川戸の渡し)

本所中之郷竹町と対岸浅草花川戸の間の渡しである。この地は、佐倉、水戸に通じる街道に当り、人馬の往来がはげしかったため、寛文7年(1667)竹町に住んでいた山城屋次郎左衛門が幕府の許可を得て、設けたと言われている。宝永2年(1705)浅草観音の祭礼の時、この渡し船が転覆し四十余人の死者を出した。それ以後、渡しの定員は十人以下(荷物があると七人以下)とされた。安永3年(1774)に吾妻橋(大川橋)が近くに架けられた後も、そのまま残された。『御府内備考』には、「この渡しは、古くに始まったのであろう『正保改訂の武蔵国図』に、当所と思われる所に舟渡九十二間と書かれている」とある。また、『江戸志』等の書には、花方の渡しと書かれている。

9] 駒形の渡し

浅草の駒形堂の近くにあり、葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』などにも駒形堂といっしょに描かれている渡しである。この渡しは昭和2年(1927)に、現在の駒形橋が架けられるまで続けられていた。

10] 御厩河岸の渡し(別名:文殊院の渡し)

浅草三好町(現在の台東区蔵前二丁目)と本所石原間の渡しである。この三好町に幕府の御厩があり、この河岸が「御厩河岸」と呼ばれていたことによる。また、この渡しの西の方にある八幡宮の別当寺を「文殊院」と呼んでいたことから別名「文殊院の渡し」とも言われた。江戸時代の『御府内備考』という書物には、この渡しは、対岸の南本所外手町に住んでいた興左衛門らが組合を作って運営していたと書かれている。図3は、『江戸名所図会』に描かれているこの渡しの絵である。

11] 富士見の渡し

現在の蔵前橋の辺りにあった渡しである。

12] 浜町の渡し

浜町河岸と竪川を結ぶ渡しである。

13] 深川の大渡し

日本橋川(新堀川)の南河口から対岸の深川佐賀町に通う渡しである。元禄11年の永代橋の完成まで続いた。『御府内備考』には、「長百十間」とある。

14] 佃の渡し

鉄砲洲から佃島に渡るための渡しである。徳川家康に招かれた摂津国佃島の漁師が干潟地を埋立て住ついて、漁ろうを始めたのが佃島の始まりである。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION