このような橋の不足を補っていたのが、渡しである。従って江戸の渡しと言っても、渡しはいたる所にあったし、時期により渡していた場所も違ったり、臨時的なものも多かった。したがって、ここでは代表的なものとして隅田川の渡しを取り上げて見てみよう。
(2) 隅田川の渡し
隅田川の渡し舟は、律令の昔から、制度化されており、承和2年(835)の『大政官符』に「武蔵、下総両国界住田河四艘。元二艘今加二艘右河等。崖岸廣遠。不得造橋。仍増件船」と書かれたものが残っている。この住田河は隅田川のことで、渡し舟を2隻から4隻に増加するというものである。また、後述のように『伊勢物語』の「都鳥の歌」や、謡曲の『隅田川』に渡しの情景が書かれていることは、周知のことである。
しかし、隅田川の渡しの場所も時代とともに変遷しており、どの時点を捉えるかにより異なるので、確定的に云うことはなかなか難しいが、なるべく幅広く代表的なものを上流から列挙すると以下の通りである。かなり数多いことがわかるであろう。
1] 戸田の渡し(別名:渡裸の渡し)
文禄3年、千住大橋が完成するまで、その上流200メートルの所にあった。ここは、奥州に通ずる古い街道筋にあたっていた。
2] 汐入の渡し
南千住汐入と牛田薬師前を結ぶ渡しである。
3] 水神の渡し
現在の墨田区墨田二丁目にある隅田川神社と、対岸の汐入との間の渡しである。この辺りも、古くからの街道筋であり、隅田宿と言われていた所である。
4] 橋場の渡し(別名:石浜の渡し須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し)
橋場から須田堤(隅田堤)への古い渡しである。常総方面への歴史的に重要な交通路であった。もともと橋場は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、態勢を立直して下総を経て、鎌倉へ向かう時、隅田川に浮橋を架けて渡った所と言われている。渡しの位置は、時代によりすこしずつ違っている。『伊勢物語』に出てくる在原業平の都鳥の歌は、この渡しに因んだものである。
「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれいて、思ひやれば、「かぎりなく遠くも来にけるかな」とわびあえるに、渡し守「はや舟にのれ、日も暮れぬ」といふに、のりてわたらむとするに、みな人物わびしくて、都に思ふ人なきにしもあらず。さる時にしも、白き鳥の嘴と足と赤きが、鴫の大きなる、水のうへにあそびつつ、魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡し守に問ひければ、「これなん都鳥といふ」といふを聞きて、
「名にしおはばいざこととはむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」
とよみければ、舟はこぞりて泣きにけり。」
このようにこの渡しは昔から有名で、「こととふ」という言葉が現在の「言問通」や「言問橋」等の語源になっているのは、よく知られているところである。『正保改訂の武蔵国図』に、この渡しの川幅は六十八間と書かれている。
5] 寺島の渡し
地蔵坂と浅草今戸を結んでいた渡しである。
6] 竹屋の渡し(別名:待乳の渡し)
この渡しは、三囲神社鳥居前の少し上手から対岸の待乳山聖天河岸へ渡すものである。「竹屋」とは、山谷堀に「竹屋」という船宿があり、これに因んだものと言われている。この渡しは昭和3年(1928)言問橋が架かるまで存続した。現在は、隅田公園の北のはずれに、「竹屋の渡し跡の碑」がある。
7] 山の宿の渡し(別名:枕橋の渡し、言問の渡し)
竹屋の渡しの下流に、源森川(向島の北十間川)の河口から対岸の浅草花川戸のはずれの山の宿に通う渡しがあった。現在は、隅田公園内の東武線の鉄橋をくぐって30メートル程行った所に写真2のように「山の宿の渡しの碑」がある。