司馬がいう大陸から日本列島への西よりの風は吹いていない。西風は冬季に吹く。ただ平成十一年の夏のように、日本列島の近くに熱帯低気圧が発生すると、その低気圧へ風が吹き込むので北西の風が強くなることはありうる。奈良時代の気圧配置を確認する由もないが、司馬が当時の船乗りが逆風の季節をえらんだと言い切れる根拠はない。
司馬の根拠は、遣唐使の航海をくわしく調べた森克巳氏の研究によるものではないだろうか。森は、「遣唐使船はまだ季節風を知らず、逆風の時期に出帆して遭難した」(『船』法政大学出版局)と書いている。ただ森は同じ著書のなかで「九世紀の中国商船が博多に入港するのは陰暦の七月が最も多く、また博多から本国へ向けて出帆する時期は三・四月か八月が多い。季節風が逆風に変わろうとする間際をえらんでいる」と述べているように、司馬のいう六・七月が逆風の季節とはいってない。むしろ、森は三月ごろから南東に変わり八月ごろまでの六カ月ほどが航海期と言っているのである。これだと先の高橋らの計算結果と合う。おそらく司馬は七月に中国船が博多へ入るので、七月には中国から日本列島へ風が吹いていると解釈したのではなかろうか、司馬の勇み足であろう。
しかし、司馬遼太郎といえば大作家である。生前は何も言わずに故人になってから批判するなんてひきょうだと思われるかもしれないが、これから述べるように、わたしは古代の日本列島と中国大陸との航海について調べている過程で、先の個所に出くわした。そのときすでに司馬は没していた、ということである。司馬も奈良時代に亡くなった船乗りに無知といったのだから理解できるだろう。
日本の基礎を築いた安曇族
紀元前後に、日本列島には中国大陸や朝鮮半島と航行し交易をしていた人たちがいた。それは今の福岡市から唐津市あたりまでの北部九州沿岸を根拠地とした漁民で、なかでもその代表的なのが福岡市の志賀島を本拠地に、海の中道を経て新宮町あたりまでの浜辺を活動拠点とした安曇族である。かれらは刺青を入れる風習や水に潜って魚介類を獲るなどの生活などから、元は中国大陸の長江河口域から渡来した人たちと見られている。
この安曇族は、「海と安全」五月号(四九六号)で紹介した海神(わだつみ)(綿津見)を祖神とする人たちで、縄文時代の終わりごろから弥生時代を経て奈良時代までに、中国大陸、朝鮮半島と日本列島を自由に航行して盛んに交易するとともに、農耕技術者、冶金技術者などの人材を求めて、当時の先端技術を日本列島へ導入している。列島内においては、漁労技術、航海技術、製塩、交易を通じてネットワークを広げて、今日の日本列島発展の基礎を築いている。
列島内ネットワークは、十世紀に出された和名抄に記載されている地名だけでも、海部(かいふ、あま)に因む地名が太平洋の千葉県から瀬戸内海、日本海の福井県から九州の十七ケ所、安曇にちなむ地名として長野県(安曇(あづみ)郡)、鳥取県(安曇(あづま)郷)、愛知県(渥美郡)、岐阜県(厚見郷)、滋賀県(安曇(あど)川)、大阪府(安曇(あど)江)、奈良県(安曇田庄)、福岡県(阿曇郷)があるように、今日の東北、北海道を除く全域に広がっている。また石川県の安津見地区のように和名抄に記載されていない地域や安曇族の根拠地の志賀島にちなむ志賀という地名も各地にある。それに文字も無い時代のネットワークであることを考慮すると、その営業域は和名抄に記載された地域より数多かったことだろう。
外航は筏船 内航は刳船
安曇族が船を使って活躍した時代のほとんどは文字文化以前である。漁民文化は、漁労技術にしろ航海技術にしろ、使用した木造船自体が最後にはたきぎになるように無形文化が多いことから歴史上で評価されにくい。