記録が無い二千年前に中国大陸と日本列島間の航海に用いた船については、現在、刳(くり)船にアウトリガーを着けた船、ダブルカヌー(カタマラン)など複数の刳船を舫った船、それに筏(いかだ)船の三つの説がある。これらを積載量・物、推進動力、航海日数、航路などを基に、具体的には、西暦五七年に洛陽へ行って後漢の光武帝から「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と彫った金印(一七八四年志賀島で発見)を授受した際の航海から考える。この航海には安曇族自身かあるいは安曇族が深くかかわったに違いない。
洛陽は、河口から直線距離で六百キロ余りの黄河沿いにある。その洛陽までの航路は、安曇族の出身地であろう長江との交易から推測すると、春先に志賀島を出港して南東の風と対馬暖流をとらえて東シナ海に入り、大陸沿いに南下するか、南東の風を利用してジグザグに走り長江に入り、運河(紀元前四八四年開通)を通って黄河に入り洛陽へ着き、帰路は長江から大潮の下げ潮の流れと南東風を受けて東に走り、黒潮の流れに達すると流れと風を使い九州付近から対馬暖流に乗って志賀島へ戻ったものと考える。なにも中国大陸から日本列島へ風が吹かなくても航海はできる。
当時の動力は帆(風力)と潮流と櫓(人力)しかない。積荷は献上品として塩、塩乾魚介類の食料、布(苧麻(ちょま)、天蚕)、絹、綿などだろう。それに奴国の正式使者として行くにはそれなりの人数と食糧、服装も整えねばならない。だとすると、夜露や潮で品物をぬらさないように、屋根や囲いが必要になってくる。まず、アウトリガー船では無理であろう。刳船を舫(もや)っても長さに対して幅が制限されるし、荒波に耐えるように舫うこと自体むずかしい。長い木を二つに割って並べ、横木を添えただけの筏船は、帆柱も立てやすく、帆も操作しやすいので風を逆上って走れる。おそらく、二千年前の大陸間航海は筏船を使い、列島内で河川を逆上る航行には刳船が使われたことだろう。
この地 この海 この灯台
社団法人 燈光会
7] 塩釜港仙台南防波堤
(所在など)
宮城県塩釜港仙台区
平成十年三月改良(白光)
(由来、特徴など)
東北を代表する仙台市、その海の玄関・仙台港に出入りの道しるべであるこの灯台には、三日月型のレリーフが取り付けられています。
灯台は、昭和五十年に設置されましたが、平成九年にこの防波堤が延長されるにともない、灯台も改築することになり、この際、一般の人々にも親しんでもらえる灯台、地域に密接した灯台ということで、仙台にゆかりの「伊達政宗公」の兜にみたてた三日月型の前立物を設置されました。
このレリーフ(三日月型兜)は、仙台港から沖合いに向かって取り付けられ、海上交通安全と海運繁栄を望んだ政宗公が、遥か彼方の使節を派遣した西洋を見つめているようです。