日本財団 図書館


いつの頃からかこの国には分方(ぶかた)がいた。分方はたとば私の在席する一家では今でも数百本の丸太を倉庫に確保している。

分方の一番大切な仕事は、コロビと共生する高市の中に所場を確保することだ。全盛期、サーカス、ヤブ、小物を合せて五〜六社の並ぶ高市では、サーカス二千本、全体で三千本余の丸太を準備しなくてはならない。

東京では靖国神社の高市がこの規模に近かった。

これだけの丸太を確保し、太夫元一座の世話をするために、どれだけ多くの人達が走り廻ったのだろうか。これだけの丸太を確保するためには、近郷まで、当時は荷車であったろうが、若い衆は時には泊り掛けで働いた筈だ。分方には絶大な力が必要だった。

一方、太夫元一座は、鍋釜、道具類を汽車にかつぎ込み高市に乗り込んだ。トラックでの移動が一般的になるのは昭和四十年前後だったので、一部の一座を除けば汽車での移動が、時には荷車での移動があたりまえの時代だった。

年間を通して、高市の荷(出し物)は、年に一度、分方、太夫元が参集して調整されていたようだ。大高は稼げる。五十を超える荷は大高に殺到するが、同じような荷が連続して高市に掛ることは、分方としては避けたい。河童ばかりが同じ高市に姿を現してはまずいのだ。次には人魚を、次には人間ポンプでなければ高市は枯れる。

荒くれ達の密議といった交渉は、酒の席から深夜、未明に渡って、体を張りながら行なわれたことは想像に固くない。この密議によって分方と太夫元は、混然一体となって高市を練り上げていたのだった。力のある者が、天所場(一番いい所場)を取った。仮設興行組合設立は、全盛期を過ぎたとは言え、こういった世界の近代化を進めようとする側面があったと私には思える。

さて、コロビの世界では高市当日の乗り込みが一般的だった。高市が終ると深夜、そのまま闇に紛れて次の町へ移動する。ネタバレしないうちに逃げ去ると言っても良い。今日のゼンマイは明日は動かない。盆栽に根が無い事もある。ズラかるためには荷物を軽くしなければならない。従ってたたき売る。三寸を持たない者は、時には民家の戸板までビラ(板)として使ってしまう。闇に紛れてとにかく急ぐ。

見世物はそうはいかない。事前から丸太を準備し、高市が終ると時には次の高市まで、長い時は数週間現地に留る。ネタバレしてはいけない時間が、コロビより長い。ここに芸というものの発生の秘密があるように思えるのだが、今ようやく闇の中に間道の入口が見えて来たので先に進むことにする。

地図にない間道は、江戸期より、そのもっと昔からこの国にあった。ここをコロビが走った。見世物屋も通った。馬賊も通った。馬賊は賭場を開き高市のあがりをスッテンテンに巻き上げ、コロビはネタ銭を馬賊から借りている。獅子舞などの神楽も通ったし、街道を歩くことのできない、正体のわからない男や女も、時には気前のいい高市のおこぼれをあてにしてここを通った。

オヤジの言うとおり忍者もこの間道を通ったかも知れない。こどもの頃から体ひとつで、見世物屋として時には離島にまで旅を掛けたオヤジは、分方(ぶかた)となった現在でも、何かを探しているように、私には見受けられる。

京劇、チンドン、タイと、目を細めて体や体の動きを見ているオヤジには、芸人の血といったものが流れている。

オヤジの実の親は芸名吉田奈良吉、本名新谷美明という浪曲師だった。十六才の頃生き別れ西村という姓に変っている。オヤジを養子にした西村宗吉も、元の姓は松本だった。この業界の親分、子分の関係は演劇的なものだ。兄弟分にしても同じことで、本当の親兄弟はほかに居る。あるいは居た。あるいは、居たらしいと、過去をほごにして仮の親兄弟をもつ。盃という儀式は、どうやら過去を水に流して、再生を意味しているようなのだが、絶対的な、しかも仮の親を持つ身にとっては、祖先は忍者でも、僧侶でも、夜盗でもなんでもいい。王であってもいいのだ。

仮の親の祖先であるのなら、台本を書くように、この劇に一番ふさわしい役割の祖先を作り上げればいい。これをもっとうまくやるには、そこを空席にしておくことだ。そうすれば劇の筋書は時間を逆行して書き直し可能になる。私は誰であってもいいのだと。

こうして仮の親を持つことによって、我が身は王の末裔であり、夜盗の末裔であり、忍者の末裔であり、実体を必要としない、仮の自由を獲得することができた。

もちろんこの自由が許されるのは、見えない間道の所在を知る者に限られているらしい。

…<飴細工師>

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION